4月8日 来るべき御怒りからの救い

生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。《ルカの福音書 二十三・31》

この主のみことばは、示唆に富んでいる。また、様々な意味に解釈されているが、その中でも中心的な教えは次のことである。

「いのちの源である創造主に繋がり、創造主のいのちに溢れている『生木』であるわたしは、身代わりとなって、今このような苦しみを受けている。主に背き、主から全く離れ、内に死を持つ『枯れ木』である者たちの身代わりとなっている。であるなら、そのように主に背いている『枯れ木』の罪人たちが、苦しみを受ける時には、いかなることが待ち受けているのであろうか。『枯れ木』の罪人たちの上には、罪に対してお怒りになる神の御手が下されずに済むことはない。」

罪人の立場に立たれたイエスを神がご覧になった時、イエスを憐れんで裁きを下すことを惜しもう、とは思われなかった。神はイエスを完全に裁かれたのである。キリストを持たず、新しく生まれ変わっていない者を神がご覧になる時、尚一層のこと、その者たちを憐れみ、裁きを下さないはずがない。神は、必ず裁きを下されるのである。

罪人よ。イエスはあの時、主に敵対する者たちの手によって捕らえられた。罪人のあなたも、あなたに敵対する悪霊どもの手に捕えられ、あなたに定められた所に引きずり込まれて行く。イエスは神に見捨てられた。罪人の身代わりとなられたイエスが見捨てられたのなら、ましてあなたはどうなることであろうか。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。《マルコ 十五・34》」何と恐ろしい叫び声であろうか。しかし、あなたが「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか《マルコ 十五・34》」と叫ばねばならないとしたら、いかなることがあなたに起こるのだろうか! あなたのこの叫び声には、このような答えが返って来るに違いない。「あなたたちは、わたしが語った忠告を全て無視した。また、わたしが『行いなさい』と命じた戒めも、何一つ行うことはなった。それゆえ、あなたたちの悲惨な状態を見て、わたしもあざ笑う。恐怖に囚われているあなたたちを見て、あなたたちが今までして来たのと同じように、わたしもあざ笑うであろう。」

神は、そのひとり子をさえ惜しむことなく死に渡されたのなら、あなたも惜しむことなく死に渡されるであろう。その時、良心の呵責があなたに残っているなら、あらゆる恐怖に襲われるに違いない。そして、灼熱のワイヤーによって、あなたは鞭打たれるであろう。あなたたち富裕層の者よ、日々宴会騒ぎをして来た者よ、最も独善的な罪人よ。神はあなたたちに向かい、こう言われるであろう。「剣よ。わたしを拒んだ者に対して目を覚まし、襲い掛かれ。その者から、永遠に苦痛が離れることがないように。」その時、あなたの身代わりとなる者がいるだろうか。「生木」であるイエスは、顔につばきを吐きかけられた。「枯れ木」である罪人よ。あなたの受ける恥辱はどれだけのものであろうか。

生木」であるイエスは、私たちのために死んでくださった。イエスの上には、多くの悲しみと残酷な仕打ちが下された。私たちは、イエスが受けた悲哀を、一言で言い表すことは出来ない。それゆえ、「枯れ木」であるあなたがキリストにつながらずに今のまま死んだなら、どのような苦悩が大波のようにあなたを襲うかを、私たちは語り尽くすことは出来ない。あなたは、「枯れ木」のままで死ぬかもしれない。しかも、それは今かも知れない。

キリストは苦難を受けてくださった。キリストの上に鞭が振り下ろされ、背中は裂けた。十字架上で、キリストは血の全てを流された。ことごとく、あなたのためである。このことを信じないなら、来るべき御怒りをあなた自身に招くことになる。神の御子を信じなさい。そうすれば、あなたは決して滅びることはない。

4月7日へ  4月9日へ  4月の目次へ  「きょうのみことば」へ

コメント