神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に上げられました。《使徒の働き 五・31》
私たちの主イエスは、ただ一度十字架につけられ、死んで葬られ、今は栄光の座に着いておられる。天に備えられたこの至高の御座は、キリストのものである。このことには、異議を唱えることも出来ない程であり、議論の余地もない。
キリストが天の至高の御座に上げられたことは、私たちの代表として上げられたのである。この真理を忘れてはならない。この真理は、私たちに多くの麗しい恵みをもたらすからである。
キリストは、父なる神の右の御座に高く上げられた。キリストは本来、神ヤハウェだけがお持ちの、卓越した数々の栄光をお持ちであった。有限な被造物には共有することさえ許されない、栄光である。にも拘わらす、イエスが人として仲介者となっている今、天でお受けになっている幾多の栄誉は、全ての聖徒が受け継ぐものとなっているのである。キリストとご自身の民とが深く結ばれ、一体であることを日々の生活で表すことは、私たちに大きな喜びをもたらす。私たちは事実、キリストと一体となっている。キリストのからだの肢体である。キリストが高く上げられたことは、即ち私たちが上げられたことである。キリストは罪に打ち勝ち、御父と共に、神の右の御座に着いておられる。同じように、キリストは、私たちをもその御座に座らせてくださる。キリストは一つの冠をお持ちである。そして、私たちそれぞれに、栄冠を与えてくださる。キリストは王座をお持ちである。その御座に、ご自身だけが着座なさることに満足なさらなかった。キリストの右の御座に、「オフィルの金」で飾られた王妃が座らなければならない。花嫁なしでは、キリストは栄光をお受けになることが出来ないのである。
信仰者よ。今イエスを仰ぎ見なさい。信仰の目をもって、その頭に多くの冠を戴いているイエスを見なさい。次のことを忘れてはならない。いつの日にか、キリストの現在の真の姿を見る時、あなたもキリストに似た者とされる。キリストのように偉大な者になるのではない。神のようになるのでもない。多少は、キリストがお受けになったのと同じ栄誉を、共に受けるであろう。多少は、キリストがお持ちの幸いを、共に楽しむであろう。多少は、キリストがお持ちの威厳を頂き、共に楽しむであろう。
暫くの間、人々から忘れ去られたかのように過ごすこともあろう。貧困という野を、重い足取りで歩くこともあろう。心身を悩ます苦難の丘を登ることもあろう。が、これらを甘んじて受けなさい。やがてあなたは、キリストと共に統べ治めるのである。なぜなら、主は「この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです《黙示録 五・10》」と記されている通りである。何と驚くべき、神の子たちへの配慮であろうか。
今、天の宮廷には、私たちの栄光ある代表者キリストがおられる。直ぐに主は来られ、私たちをご自身のもとに迎え入れてくださる。そして、いつまでも主と共にいるようになり、主の栄光を見るようになり、主の喜びを共に持つようになるのである。
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