これらすべてのことのゆえに、私たちは文書をもって盟約を結んだ。《ネヘミヤ記 九・38》
神と新たに約束を結ぶことが、私たちの人生で時々起こる。その約束は、私たちにとって非常に時宜にかなったものであり、神の恩恵が私たちにもたらされるのである。
ヒゼキヤ王は病をいやされ、回復した後、彼の人生には十数年の年月が加えられた。ヒゼキヤと同じように、私たちの人生にも新たに幾年かの年月が加えられることがある。その時、神と新たに約束を結ぶであろう。
問題の大小にかかわらず、困難から救われた後、新たに喜びが湧き上がって来る。その時、再び十字架のもとに行き、自分自身の献身を新たにしようではないか。特に、聖霊を悲しませる罪や、神の御名を汚すような罪を犯した後、自分自身の献身を新たにすることが良い。私たちを雪よりも白くすることの出来る血潮を仰ぎ見、再び自分自身を主にささげようではないか。
ただ困難の時にだけ、神への献身の思いを新たにするのではなく、繁栄の日にも同様にすべきである。私たちに「恵みとあわれみの冠《詩篇 百三・4》」がかぶせられたことがあるなら、確かに神が私たちに冠をかぶらせてくださったなら、私たちもまた神に冠をささげなければならない。神であり王であるお方に、私たちの心の宝石箱から新たにあらゆる宝石を取り出し、ささげよう。また、神に私の差し出す王服をお召し頂き、正装に威儀を整えて戴き、神を私たちの愛の王座にお迎えし、着座して戴こう。
私たちが成功し、豊かになった時、信仰は成長したであろうか。そうはならなかった。それゆえ、多くの逆境が私たちには必要だったのである。かつては神を愛し、神に自分自身をささげた。ただ一度自分をささげたからといって、神からの良きものをすべて頂くことが出来たであろうか。そうではなかった。それゆえ、愛の神は私たちを訓練するため、多くの鞭を加えるのである。
私たちは最近、ほとんど期待していなかったのにもかかわらず、思いがけず祝福を受けたことがあっただろうか。主は、私たちの足を広い所に立たせてくださっただろうか。また私たちは、神の多くのいつくしみをたたえて歌うことが出来るであろうか。そうであるなら、今日、祭壇の角に手を置き、このように言いなさい。「神よ。私を祭壇の角に結び付けてください。綱をもって永遠に結び付けてください。」
新たに神と結んだ約束を、神に成就して欲しいと私たちは望む。その時、古い誓いも反故にならないように私たちは祈ろうではないか。私たちは主の復活祭の前、感謝をもって「主の受難」について深く思い巡らして来た。私のために主が苦しんでくださったことを思い、今朝新たに、主と堅い約束を結ぼうではないか。
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