わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。《ヨハネの福音書 十七・15》
神の定められた時に、すべての信者には、祝福に満ちた麗しい事が訪れる。それは、永遠にイエスと生きるため、天の家に帰ることである。今、「信仰の戦いを立派に戦っている《Ⅰテモテ 六・12》」主の兵士たちは、あと数年もすれば戦いを終えて、自らの主とお会いする喜びに入れられるはずである。
確かにキリストは、ご自分の民が最終的に、ご自身のおられる所で共に生きるようになることを祈られた。しかし、信仰者がこの世から天国へと、一気に引き上げられることをお祈りになったわけではない。キリストは、神の民がこの世に留まることを望まれたのである。
人生の旅に疲れ果てた巡礼者たちは、次のように祈ることがよくある。「ああ、私に鳩のように翼があったなら。飛び去って休むことができたなら。《詩篇 五十五・6》」しかし、キリストはそのように祈られることはない。畑の主人は、収穫したトウモロコシを自分の穀物倉に納める。同様に、私たち一人ひとりも、主人の倉に納められる時が来る。しかし、その時が来るまで、私たちを御父の御手に委ね、この世に留めてくださいという祈りを、キリストはおささげになったのである。イエスは、私たちが信じた直後、即座に天に移されるようにとは、とりなしておられない。なぜだろうか。この地上にいることが、私たち自身のためにならないことがあるかもしれない。しかし、肉体の内に私たちが留まることによって、他の人の益になることがある。そのため、主はそのように祈られるのである。
主は、私たちが悪い者から守られるようにと祈っておられる。しかし、ご自分の民が十分に成長しないままで、栄光の資産を受け継ぐため天の御国に入れてくださいとは、決して主は祈ることはなさらない。クリスチャンは、何か問題を抱えると、よく「死にたい」と思う。その理由を尋ねると、「主と共にいたいからだ」と答える。しかし、それは本当の理由ではないと私たちは考えている。クリスチャンが主と共にいたいと願っているからではなく、単に問題から解き放たれたいと願っているに過ぎないからである。もし、「主と共にいたいから」そう願っているなら、試練の重荷など全くない時にも、同じように、死にたいと願うはずである。彼らが天の御国の家に帰ることを願うのは、救い主と共にいたいからではなく、休んでいたいからである。もし私たちがパウロのように、キリストと共にいることが遥かに優っているというので、この世を去りたいと願うなら正しいことである。しかし、問題から逃れたいので、この世を去りたいと願うのは、利己的である。むしろ、主がお望みになる限り、自分自身の生活を通して、神の栄光を現すことが出来るよう、十分に注意深く生活しようではないか。主の御心であるなら、たとい地上の生活が労苦や葛藤や苦しみの只中にあろうとも、主が「もう十分だ」と言われるまで、主と共にこの世に留まろうではないか。
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