5月8日 癒された人はイエスを知らなかった

しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。《ヨハネの福音書 五・13》

人生を楽しく、また健康に恵まれて生きる人にとって、時間は瞬く間に過ぎるものである。

今朝のみことばに記されている男は、三十八年もの間病み、寝たきりで、無力であり、無気力であった。この男はこの間、重き荷を引きずりながら歩んでいたであろう。三十八年は、何と長い時であったことだろうか。

この男は、ベテスダの池の傍らに臥せっていた。イエスはこの男をご覧になり、「起きて床を取り上げ、歩きなさい《ヨハネ 五・8》」と言われた。この一言で、彼は癒された。「すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。《五・9》」彼は、自分の身に起こった変化に気づき、喜び踊った。

絶望に打ちひしがれて幾年月を過ごして来た罪人に、これと同様のことが起こされるのである。救いを求めて来たが、疲れ、嘆息を漏らして来た。しかし、その罪人に、主イエスが力あることばをおかけになり、信仰による喜びと平和をお与えになる時、その罪人は、自分の内側に変化が起こったことを強く意識するようになるのである。

私たちの内側から取り除かれた「罪悪」が余りにも大きいため、私たちが気づかないはずがない。私たちの内に与えられた「よみがえりのいのち」が余りにも素晴らしいため、そのいのちを持ったことに必ず気づく。そのいのちが、私たちの内側で働かないままでいるはずがない。私たちが経験した「変化」が余りにも不思議であるため、人々の目に留まらないはずがない。

しかし、残念なことがある。この病の男は、自分を癒したお方を知らなかったのである。このお方の人格が、神の御心を成し遂げるためにささげられていることも、このお方の果たすべき使命が何であるかも知らなかった。更には、このお方が何を成し遂げるために、人々の間に遣わされたのか、その理由も知らなかった。

魂の内にイエスの血潮の力を感じていながらも、イエスについて何も知らないということが起こるのである。しかし、イエスについて何も知らないからといって、軽率に人を非難してはならない。救われる信仰が与えられたなら、魂は救われている。私たちは、このことを信じなければならない。聖霊の働きは、神の知識を与えることもそうであるが、それよりも先ず、人を悔い改めに導くことである。人は、自分の知識を頼るものである。その知識が直ぐに、その人の内で、明確に信仰と結びつくようになる。

とはいえ、無知はやはり悪である。残念なことであるが、この男はパリサイ人の教えに惑わされ、反駁することが出来なかった。反対者に答えることが出来るのは、良いことである。しかし、主イエスを明確に知らなければ、無理である。

しかしこの後、病気を癒されたこの男は、間もなく無知からも解放された。イエスはご自分の方から、神殿の中で彼を見つけ、恵みにより、彼の前に立たれた。その後、この男は次のように証している。「自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。《ヨハネ 五・15》」

主よ。私をお救いください。そして、私にご自身をお見せください。私が、あなたを人の子らに宣べ伝えることが出来るように。

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