自分の十字架を負い、主に従う《マタイの福音書 十六・18~28》
1.イエスさまの教会
イエスさまの弟子訓練のクライマックスに入っています。ペテロは弟子たちを代表して、イエスさまに答えます《16節》。「あなたは、生ける神の子キリストです。」
イエスさまは《18節》でお答えになります。「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。」岩とは、メシアであるイエスさまに対する信仰告白のことです。イエスさまこそ、神:ヤハウェであり、そのお方が人となられ、油注がれたお方という意味です。この信仰告白の上に、主のみからだである教会を、イエスさまご自身が建てになるのです。
「よみの門もそれに打ち勝つことはできません」とは、どういう意味かと言いますと、「よみの門」から入るのは誰でしょうか。死んだ人です。つまり、使徒たちもやがて、死にます。殉教します。教会の指導者は皆、死にます。でも、教会は終わらないということです。聖徒たちの死で終わることはない。携挙の時まで続くということです。局地戦では敗けることもあります。けれども、死に打ち勝った勝利の主の御力により、教会は必ず勝利するのです。
《19節》でイエスさまはペテロ個人に、預言をお語りに成ります。「わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」「天の御国の鍵」とは、キリストの福音の扉を開く権威のことです。この権威がペテロに与えられるという預言です。実際に、ペテロはユダヤ人に向けてイエスさまの福音を語り、ユダヤ人伝道の扉を開きました。次に、サマリア伝道です。サマリアで伝道したのは、教会の執事であり、伝道者でもあったピリポという人ですが、大切な点は次のことです。ペテロが、イエスさまを信じたサマリア人の上に手を置いて祈ると、彼らの上に聖霊さまが下ったということです。つまり、サマリア人もキリストのからだである教会に組み込まれたことが保証されたということです。このことによって、サマリア伝道の扉が開かれました。そして最後に、異邦人伝道の扉も、ペテロによって開かれました。
つなぐ・解くとは、使徒たちだけに与えられた権威のことです。「つなぐ:縛る」、「解く」という表現は、紀元1世紀のラビたちが用いていたものである。「つなぐ」とは禁止する、「解く」とは許可するという意味です。それが裁判の席で用いられると、「つなぐ」は有罪、「解く」は無罪という意味になります。初代教会、アナニヤトとサッピラの夫婦が聖霊を欺いた罪で死にましたが、ペテロはこの時、「つなぐ」、「解く」という権威を用いて、二人を裁いています。また、使徒たちによって新約聖書の書簡が書かれています。その手紙の中で、新約時代の信者はどのように行動すべきかが書き表されています。これは、或る行為を禁止し、或る行為を許可しているということです。
その後《20節》で、イエスさまは弟子たちに「ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない」とお命じになっています。理由は、熱狂的な信者は無責任になりがちです。そういう信者によって騒動が起こります。それを避けるためです。
イエスさまは、教会を建てると仰った直後、ご自分がエルサレムに行き、苦しみをお受けになって死に、三日目によみがえらなければならないと、初めて受難の告知をなさいます。イエスさまが十字架で死なれ、復活することが教会を建てるために絶対に必要なことだからです。
《エペソ人への手紙 四・7~10》7 しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。8 そのため、こう言われています。「彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。」9 「上った」ということは、彼が低い所、つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか。10 この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。
イエスさまはご自分の教会を建て上げるために、キリストの賜物を教会にお与えになりました。《11節》にその賜物が記されています。教会を建て上げるための賜物です。キリストの賜物です。
イエスさまは、公生涯最後の年に入っています。十字架で苦しまれ、死ぬという預言は、全部で四回なさいますが、これが最初のものです。先に行くとより詳細になります。内容はいつも4つの点です。第一、場所はエルサレムでおこります。第二は、指導者によって苦しみをうけるということです。第三は、苦しみを受けた後、殺されるということです。第四は、けれども三日目に復活しなければならないということです。このように、教会は、イエスさまの十字架の死と復活を土台として建てられています。教会が最も大事にしなければならないことは、イエスさまの十字架と復活です。
2.ペテロの反応――肉による錯誤
イエスさまが、十字架の預言をお語りになると、この直前でイエスさまからほめられたペテロは、大胆な行動を取ります。並行箇所《マルコの福音書 八・32~33》を見てみましょう。「32 イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。33 しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。『下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」
「いさめる」「叱る」は、ギリシア語では同じことばが用いられています。つまり、イエスさまはペテロを叱ったのですが、これは当然のことです。が、ペテロもイエスさまを叱ったのです。ペテロはかなり高慢になり、得意になって、自分が判断したこと、自分が理解していることを信頼して、イエスさまを叱ったのです。ペテロは、父なる神さまの御心を全く理解していません。そして自分の考えで行動しています。サタンはペテロを用いました。十字架にかかることなく、メシアの働きを成し遂げなさいという、サタンの思いと策略を、ペテロは代弁してしまったのです。
イエスさまは即座に、「下がれ、サタン」と仰いました。もちろん、ペテロがサタンなのではありません。ペテロが、サタンの思いを代弁したからです。これも、使徒たちへの大切な訓練です。聖霊に触れられ、霊的な体験をした直後でさえ、私たち肉を持つ者は、サタンの思いを抱いてしまう危険性を十分はらんでいるということです。
理由は、聖書全体に語られている神さまの御心を知らないからです。また、私たちの感情に訴える教えに踊らされる危険性を、私たちの魂ははらんでいるのです。ですから、聖書を正しく理解する努力が必要ですし、みことばに立つ言動を志す努力が必要です。
3.日々自分の十字架を負い、主に従う
イエスさまにほめられ有頂天になり、その後サタンの思いを代弁したペテロを教材にして、イエスさまは、弟子訓練の最も重要な点をお語りになります。《24節》「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」
まず自分の十字架とは、「何では無いか」ということについて見ます。別の言い方をすると、自分の十字架と勘違いし易いことについて見ます。
第一に、救われるための条件ではないということです。救いは、恵みにより、信仰によるのです。これは永遠に変わらない真理です。
第二に、罪でも、病でも、呪いでも、死の苦しみでもありません。これらは皆、イエスさまが十字架で勝利を取られたことです。イエスさまが十字架で勝利を取られたことを、なぜもう一度、私たちが負って苦しまなければならないのでしょうか。もし罪や病や、呪いや死の苦しみが自分の十字架だというなら、それはイエスさまの十字架を否定することになります。でも、病、呪い、死の苦しみが自分の十字架と言う人がかなりいます。その人は、イエスさまの十字架を本当に知らない人です。或いは、相当高ぶった人です。
たとい病の中にあっても、主を喜び、主を信頼することが求められています。私たちに求められていることは、一縷の望みでも構わない、どんなに小さくても構わない、イエスさまに対しる信頼です。イエスさまに対して心を開くことです。
次に、では、「自分の十字架とは何」でしょうか。
十字架とはそもそも、何でしょうか。この世の法に従って裁かれた結果、刑が執行されます。軽いものは、半年ほど刑務所に入れられるものから、最も重いものは死刑にされることです。十字架刑は、この世での処刑方法のなかで、最も重い、最も厳しい、最も残酷な処刑方法です。つまり、この世で裁かれることです。
イエスさまは、父なる神さまの御業を成し遂げられました。そのため、この世から見捨てられました。この世から裁かれました。その結果、十字架で処刑されました。
つまり、神の御心に従う時、この世の法律や常識では捨てられることが起こるのです。人々から迫害を受けます。これが自分の十字架を負うことです。ですから、自分の十字架を負うとは、
第一に、イエスさまがお受けになった苦難を、自分も受けるということです。イエスさまと同一化することです。イエスさまの苦難に与ることです。神の御心を行うために受ける苦しみです。キリストの福音のために自分自身をささげる時、イエスさまの弟子は必ず迫害されます。時には、殉教する弟子も起こされます。
このように、イエスさまと共に、この世から死の宣告を受けた者としての立場に立つことです。ペテロを代表とする12使徒たちは、まだこの時点では、イエスさまと共に、この世から死の宣告を受けた者としての立場に立っていないのです。聖霊に満たされた時、彼らは自分の十字架を負うようになります。
第二に、キリスト中心、聖書中心、神本主義の生活を送ることです。この世の価値観から、神の国の価値観に変えられることです。
《ガラテヤ人への手紙 六・14》「14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。」
十字架とは、私がこの世に対し、世が私に対して死んだ場所です。この世の最大の特徴は、自己中心、個人主義、感情主義、人本主義です。それを否定することです。そしてキリスト中心、聖書中心、神本主義の生活をおくることです。それが、自分の十字架を負うことです。
ペテロを代表とする12使徒たちは、まだこの時点では、この世の価値観のままです。
第三に、自分を捨てる、自分の魂を信頼することを止めるということです。自己保身に走る時、復活のいのち、イエスさまのいのちで生きることは決して出来ません。自分を信頼する時、復活のいのちを体験する機会を失います。自分の魂:肉を否定し、自分を信頼することを止める時、みことばに立つ時、復活のいのちが、内側から流れ出るのです。自分を捨て、自分の魂を信頼することを止める時、神の約束が成就します。《25節》「わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」今の世においても、イエスさまが必ず全てを導いてくださいます。また、聖霊さまに満たされた生活を送ることが約束されます。
将来においては、《27節》。「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。」千年王国の時、主からご褒美が与えられ、千年王国での地位が与えられます。
私たちは皆、信仰によって救われましたが、それで満足してはなりません。救いの道を開いたイエスさまの十字架の道に、参画することです。神のご計画の全貌を知り、忠実な弟子となることを志すことを、イエスさまは私たち一人ひとりにお求めになっています。
コーリー・テン・ブームが第二次大戦中、入れられた強制収容所には、定員の三倍近くの囚人がつめ込まれていました。彼女は、姉のベッツィーと共にベッドの一番上で天井にくっつきそうであったため、そこにすわることさえできません。 そのような環境の中で、あらゆる自由を奪われた若い婦人たちが、腹ばいになり、神の導きについて話し合っていました。その中の一人の姉妹が、このように語りはじめたのです。「神さまが私をここに導かれたのは、決して誤りであったとは思いません。私はここで初めて、本当の意味で祈ることを学びました。ここで 精神的、肉体的な苦痛は私に、その人がすべてをイエスさまに明け渡さない限り事態は解決されないことを教えました。これまで私は、うわべは敬けんそうな信仰生活を送っていました。しかし私の生活の中に、イエスさまを完全に閉め出していた部分があったのです。でもイエスさまは今、私の生活のあらゆる部分で王となっておられます。私ははじめて、神の平安と愛で満たされる喜びを知ったのです。」
試練は、主の約束された平安を私たちに供する舞台である、と言えましょう。 思い煩い、不安、恐れが押し寄せて来た時、主にすべてをゆだね、自分の生活のあらゆる部分を愛の御手に明け渡すとき、私たちは言い知れない神の平安と愛に浸り、主を心からほめたたえるようになるのです。
祈り:愛と恵みに満ちておられる、私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、感謝します。天のお父さま、御前にへりくだらせてください。信仰を引き上げてくださる、主からの訓練を感謝致します。心の内を全て、イエスさまに明け渡し、イエスさまと共に、、この世から死の宣告を受けた者として立つことが出来ますように。また、イエスさまと同じ価値観を持つことが出来ますように。自分を捨て、イエスさまだけを信頼することが出来ますように、みことばだけを信頼することが出来ますように、聖霊さま導いてください。心の内の罪を取り除き、きよめ、聖霊さまがご支配してくださいますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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