私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき……。《テトスへの手紙 三・4》
救い主は、ご自分の愛される民と交わることを何よりも喜ばれる。この交わりを楽しんでいる人を見ることは、何と麗しいことであろうか。聖霊に導かれ、この喜びの花が一面に咲き乱れる野原に行き、そこに留まることほど嬉しいことはない。
贖い主の愛がどのように表されて来たのか、その移り変わりをひと時でも良い、思い巡らしてみようではないか。そうすれば、数え切れないほど心を魅了する愛のことばが心に浮かんで来るはずである。そのことばによって、私たちの心はキリストの中に織り込まれるようにして、キリストの心と結び合わされる。また、新生した私たちの思いと感情は、イエスの心に撚り合わせられ、一つにされるのである。このように、キリストの愛のことばは、信者の心と魂をキリストと一つにさせないではおかない。
キリストのこの驚くべき愛に思いを馳せてご覧なさい。また、栄華を極めている花婿が、花嫁である教会に、いにしえからお持ちの富を、教会にお与えになる様子を思い描いて見なさい。私たちの魂は、喜びのあまり気を失うであろう。この愛が人の上にのしかかるように注がれたなら、それに耐えられる人がいるだろうか。聖霊は時々、この愛の感覚のごく一部を与えてくださる。その愛でさえも、私たちの魂に注がれる時、私たちの器に押しとどめておくことは出来ない。器に満ちあふれ、こぼれ、流れ出てしまうほどである。キリストの愛の全貌を知った時の喜びと感動は、いかばかりであろうか。
今この地上で、次に来る世に現わされる、救い主が与えてくださる賜物をことごとく知る知識と、その賜物を正しく測る知恵と、その賜物について深く思い巡らす時とが与えられたなら、神のいつくしみと愛を知った魂は、更に深くイエスとの交わりを持つのである。しかし、その交わりの麗しさを、誰が想像出来るであろうか。神とのこの麗しい交わりは、「人の心に思い浮かんだことのないもの《Ⅰコリント 二・9》」の一つに数え上げられるものである。この麗しい交わりを、「神は、神を愛する者たちに備えてくださった《Ⅰコリント 二・9》」のである。
かつて主との麗しい交わりを持った聖徒たちのように、その交わりの扉が開け放たれ、その喜びを味わい見ることが出来たら良いのに。私たちのために蓄えられている富や喜びを見ることが出来たら良いのに。その時、私たちはキリストの愛で圧倒されるに違いない。
信仰により、銅鏡に映し出されるように、ぼんやりと私たちは神の無限の富を見ている。私たちにいのちを賜う、愛に満ちた贖い主、私たちの主イエス・キリスト。主の愛はいかなる人の愛にも優って、素晴らしく、不思議である。しかし、私たちはやがて栄光の肉体に変えられ、その時実際に天上のものをことごとく見る。その時、私たちの魂は麗しい交わりの流れに浴する。その流れがいかに深いかを、初めて知るのである。そして、主イエス・キリストに対する感謝の歌を、私たちは叫び、声高く歌い上げ、永遠にほめたたえるのである。
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