私は、そんなに愚かで、わきまえもなく あなたの前で獣のようでした。《詩篇 七十三・22:英訳》
今朝のみことばは、神の御心を求めている人の告白である。この人は、自らの内面の生活を語っている中で、「私は、そんなに愚かで、わきまえもなく」と書いている。
この「愚か」ということばは、普通考える以上に深い意味を持つ。この詩篇記者のアサフは《3節》で、「それは私が、悪しき者が栄えるのを見て、誇り高ぶる者をねたんだからだ」と書いている。このことばは、彼の愚かさの中に罪が含まれていたことを示している。アサフは、単に愚かであったと書いているのではなく、「そんなに愚か」と強調している。彼には、この愚かさが具体的には分からなかったが、それは罪に満ちた愚かさであった。弱さのゆえであると大目に見るべきものではない。偏見に起因する無知であり、意図的な反抗に起因する無知のため、非難されるべきものである。アサフは、神を信じない者たちを待ち受けている、恐ろしい結末を忘れてしまった。ただ、今彼らが繁栄している様子を見て、妬んだのでる。
「私は、アサフのように愚かではない。彼よりは賢い」と、私たちは言い得るのだろうか。或いは、完全の域に達したと明言し得るのだろうか。或いはまた、神から懲らしめを受けた結果、神から受けた鞭がすべてのわがままを取り去ったと公言し得るのだろうか。そのように言うことこそ、高慢の極みである。アサフが愚かだったとあなたは言うなら、公正な目を頂き、自らをご覧なさい。自らに下していた評価がいかに愚かであり、単にうぬぼれていただけであったという結論に至るであろう。
信仰者よ。思い返してご覧なさい。神はあなたに忠実であり続けた。その時、あなたは神を疑った。神は、更に大いなる祝福をあなたに与えようとしておられる。そのため、一時的に患難をお与えになった。神は、あなたを祝福するためご自身の御手をあなたの上に置かれた。その時、あなたは愚かにも「父よ、そうではありません」と叫んだ。また、あなたが暗闇の中にいたため、神の摂理を悟ることが出来ず、神のはからいを誤解して、「こんなことがみな、私にふりかかってくるのだ」と、幾たびもうめき声を上げた。神は、全てのことを働かせて益としてくださろうとしたのである。快楽を追い求めることにより、苦味の根源を味わうことになる。あなたはその快楽を楽しもうと、幾たび罪を選んだことか、思い起こしてご覧なさい。
確かに、私たちは自らの心を知るなら、「罪ある者」と認めないわけにはいかない。そして、私たちの内面は、罪に満ちた愚かさがある。それを自覚した上で、アサフの「私を諭して導き……《24節》」という堅い信念を、自らのものとしなければならないのである。
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