イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。《マルコの福音書 十四・72》
ペテロは生涯、主を否んだことを思い出す度に涙が溢れ、頬に涙がつたったであろうと考え、その考えに同調する人たちがいる。そのような考えは、あり得ないことでもない。彼は非常に大きな罪を犯したからである。しかし、後には恵みにより、主は彼の中に完全な御業を成してくださった。
この経験は、程度の差こそあれ、全ての贖われた者に共通する体験である。私たちは、聖霊によって、生来の「石」のように硬い心を取り去って頂いたが、その程度は信仰者によってまちまちである。しかし、ペテロのように「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません《マルコ 十四・29》」と、うぬぼれて主に約束したことがある。その後、苦い悔い改めの思いと共に、罪の結果を刈り取ることになる。主に対して、私たちがどのような誓いをしたかを考えるなら、また誓ったことが実際にどうなったかを考えるなら、私たちは悲しみに沈み、悲哀の涙を流さない人はいないのである。
ペテロは、主を否んだことを思い返していた。自らが主を否んだ場所、自らの極悪非道な罪を犯すに至った小さな原因を思い返した。また、自らを救うために呪いをかけて誓い、神を汚すことばを吐いたことも思い返した。更に、三度も主を否むよう、自らを追い詰めてしまった恐ろしい程の心の頑なさについて、ペテロは考えた。
私たちも自らの罪を思い知らされ、またその罪が極度に罪深いことを思い知らされる時、無神経で頑なな態度をとり続けることが出来るだろうか。私たちの集う集会を、涙に濡れる場所としないで良いのだろうか。神の愛は、豊かに赦してくださる。この赦しの愛が保証されていることを新たに知るため、主に向かって叫び求めないで良いのだろうか。やがて私たちの舌が地獄の炎で焼かれることがないよう、涙を浮かべず、冷ややかに罪を見ることが決してないように。
ペテロはまた、主の愛に満ちた眼差しに思いを馳せた。鶏の鳴き声に続き、主は、悲しみと憐れみと愛に満ちた眼差しで、ペテロをご覧になった。この眼差しは、ペテロの生涯で決して忘れることの出来ないものとなった。主の眼差しは、聖霊の油注ぎのない説教を一千毎回聞くよりも、遥かに力があった。深く罪を悔い改めたこの使徒は、主の眼差しを思い出す度、涙を流したに違いない。救い主はペテロの犯した大きな罪を、完全に赦してくださった。そのことを思うたびに、涙したであろう。主の赦しにより、ペテロは本来の召命と職務に回復されたのである。
この上なく優しく、善なるお方の御心を傷つけたことを思う時、私たちは涙を流さずにいられない。いいえ、悔い改めの涙を流しても、まだ足りない程である
主よ。岩のような私たちの心を打ち砕き、そこから生けるいのちの水をほとばしらせてください。
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