あなたがたのいのちであるキリスト……。《コロサイ人への手紙 三・4)
このみことばで、パウロは驚くほど豊かに表現していることがある。それは、キリストが私たちのいのちの源であられる、ということである。
「自分の背きと罪の中に死んでいた者《エペソ 二・1》」であるあなたがたに、神はよみがえりのいのちを与えてくださった。ラザロを墓の中からよみがえらせた主の御声と同じ御声が、私たちを新しいいのちによみがえらせてくださった。新しいいのちについて、5つのことを聖書は証している。
第一に、今や主ご自身が、私たちの霊的いのちそのものとなってくださった。主のいのちによって、私たちは生きている。キリストは私たちの内におられ、私たちの栄光の望みである。キリストは、私たちが行動を起こす原動力や動機であり、この世界のすべての思考に影響を与える中心的思考である。
第二に、キリストは私たちのいのちの糧である。クリスチャンは、イエスの肉と血以外に、何を食べれば良いのだろうか。「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。《ヨハネ 六・51》」この罪の荒野の旅に疲れた者よ。霊魂の飢え渇きを満たす食物は、キリストの内にある。
第三に、キリストは私たちのいのちを慰めてくださる。私たちが得ることの出来る真の喜びは、全てキリストから来る。そして、苦難の時には、主のご臨在が私たちを慰めてくださる。人生の価値とは、主のために生きること以外にはない。主のいつくしみは、いのちにも優る《詩篇 六十三・3》のである。
第四に、キリストは私たちの人生の目標である。船が港を目指して急ぐように、信者は救い主の胸にある天の御国を目指して急ぐ。矢が的に向かい真一文字に飛んで行くように、クリスチャンは、キリスト・イエスとの交わりを完成させるため、真っ直ぐに飛んで行く。兵士は指揮官のために戦う。指揮官が勝利を収めることで、自らの栄光とする。同じように、信者はキリストのために戦う。主が勝利を収めることにより、自らの勝利とする。信者にとり、「生きることはキリスト」なのである《ピリピ 一・21》。
第五に、主は私たちの人生の模範である。内に同じいのちを戴いているなら、外に向かって現れる成長も同じはずである。また、そうでなければならない。私たちが主イエスとの親密な交わりの中で生きているなら、私たちは主のように成長するであろう。私たちは、主イエスを神聖な模範として自分の前に置き、主が私たちの栄光のいのちの冠となられるまで、御足の跡に従って歩むように努める。
キリストは私たちのいのちである! それゆえ、クリスチャンはいかに安全であり、いかに名誉なことであり、いかに幸いであろうか。
コメント
こちらのページに出会えて良かったと思い、コメントしています。これから聖書を学んでいきたいので、毎朝ページを開けて参考に学ばせていただきます。でも、現在更新がされていない点が気になります。イエス様は今もそちらの教会で働いておられるのですか?いつかそちらの教会に行ってみたいと思っています。
主にあって愛する松田由美子姉へ
おはようございます。「主の平安が豊かにありますように。」
スポルジョン先生の短くも豊かな、鋭く、そして優しく、聖書の真理を解き明かすメッセージが、松田姉の学びに役立つことが出来、大変光栄であり、励ましを頂いております。私自身も翻訳中、或いは今毎日「推敲」のため読み返していますが、恵みを頂いています。
スポルジョンの「夕ごとに」を更新中なのですが、時間がなかなか確保出来ず、進んでいません。
今も毎週日曜日、何人のかの方々と礼拝をささげています。一度いらしてみてください。
主にあって 主代