それらは、あなたがたのために天に蓄えられている望みに基づくもの……。《コロサイ人への手紙 一・5》
私たちは、キリストの内にあって将来への希望を持っている。この希望は、私たちが地上において信仰生活を送る際の喜びの原動力であり、また支柱でもある。天の御国を思い描くことにより、私たちの心には力が溢れる。私たちの望み得るすべてが、天の御国において成就すると約束されているからである。この地上で、私たちは労苦し、倦み疲れている。しかし、来るべき御国は安息の場所である。彼の地では、働く者の額に汗が流れることはない。「走っても力衰えず、歩いても疲れない《イザヤ 四十・31》」地なのである。
身も心も疲れ、力を使い果たした者にとり、「安息」という言葉には天の御国のような響きがある。私たちは常に戦いの中にある。内においては誘惑があり、外敵に悩まされ、平安はほとんどない。いいえ、全くないと言って良い。しかし、御国で私たちは勝利を楽しむ。その時、勝利の旗は高く翻り、剣は鞘に収められ、私たちの勝利の主イエスが「よくやった。良い忠実なしもべだ」と私たちにことばをかけてくださる。
この地上では、私たちは愛する者たちと死別するという悲哀を、どれ程味わっているだろうか。しかし、栄光のからだを戴き、私たちは死を見ることのない国へ行くのである。そこには墓はない。この地上では、私たちは罪のために、どれ程苦しんでいるだろうか。御国では、私たちは完全に聖なる者:栄化された者とされる。そして、汚れた者は決してその国に入ることはない。この地上には毒草が生えるが、御国にはない。
ああ、何という喜びだろうか。永遠の刑罰を受け継ぐ者とならず、永遠に荒野に住まうことから解放された人。もう直ぐ、約束の地である御国を受け継ぐ者は。とは言え、「あなたたちは、将来を夢見るだけで、現在をなおざりにしているではないか」という非難を、決して受けることのないようにしようではないか。将来の希望に思いを馳せ、現在は聖化の道を歩み、主のご用のために最も有用な者となろうではないか。
聖霊の働きによって、天の御国に希望を持つ時、私たちの内に麗しい性質が形づくられるようになる。その希望こそ、最も強力な原動力であり、喜びに満ちあふれて努力を重ねる力となり、喜び歌いつつ聖化の道を歩む土台となる。この希望を抱いている人は、主の喜びを力とし、主のご用に精力的に取り組む。また、その人は誘惑に対して熱心に戦う。先述して来たことを、次に来る世で体験することを知っているからである。この希望があるからこそ、信仰の盾により、敵の放つ火矢を跳ね返すことが出来るのである。更に、その人は今受ける報いがなくても、労することが出来る。来るべき世において、主からの報いを戴けると期待しているからである。
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