10月7日 なぜ苦難の中を通るのか

なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのですか。《民数記 十一・11》

なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのですか。」その答えには、次のことが挙げられる。

天の父は、私たちの信仰を試される。そのため、私たちに苦難をお与えになるのである。

私たちの信仰は、真価を問われるに値するだろうか。そうであるなら、与えられた試練に耐え得るであろう。金めっきは火の中を通されることを恐れるが、純金はそうではない。人造の宝石はダイヤモンドに触れられることをひどく怖がるが、真の宝石はどのような審査をも恐れない。次のように、限定的に神を信頼するような信仰は、実に哀れである。親友が誠実で、助けの手を伸べてくれる時。自分のからだが健康で、活力に溢れている時。商売が繁盛し、経済的に潤っている時。このような時、神を信頼するのはたやすい。しかし、真の信仰とは、主イエスが忠実で、誠実なお方であることに支えられている。それゆえ、親友が去っても、病気になっても、からだが病んで元気を失っても、霊的に落ち込んでも、主の誠実を信じて疑わない。最も恐ろしい苦難の中にあっても、「神が私を殺しても、私は神を待ち望み……《ヨブ 十三・15》」と告白できる。この信仰は、天より与えられた信仰である。

次に、主はご自身の栄光を現すため、ご自身のしもべに苦難をお与えになる。

主はご自身の御手の業である神の民に、恵みをお与えにる。恵みを与えられた主の民は、大いに主の栄光ほめたたえるのである。「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す《ローマ 五・3~4》」時、主はこの「練られた品性」によってほめたたえられるのである。どんなに素晴らしいハープでも、弦をかき鳴らさなければ、妙なる音楽を奏でることはない。ぶどうを酒舟の中で踏まれなければ、ぶどう果汁を味わうことは出来ない。また、どんなに香りの良い肉桂(シナモン)でも、押しつぶしたりしなければ、麗しい香りを発することはない。更に、石炭が完全燃焼しなければ、火によって暖まることは出来ない。

偉大な働きを成し遂げるお方は、知恵と力をもって、ご自身の民を扱ってくださる。神の民は、主の憐れみを受ける器であるが、その民には神の許された試練が定められている。この試練の中に、実に、神の知恵と力が溢れている。現在、苦難を通過していることによって、将来、一層大きな喜びを味わうことになる。素晴らしい絵画には必ず、光の美しさを引き立てる陰影を巧みに描き出す技術が要求される。私たちが罪と呪いと地上の悲哀を知らなかったならば、天の御国に入れられた時、この上もない祝福に与ったことを、どのように知ることが出来るのだろうか。葛藤し、ぶつかり合った後に経験する平和と平安こそ、実に麗しい。精を出して働いた後にとる休息こそ、実に喜ばしい。過ぎ去った日々に味わって来た苦悩を思い出すことこそ、栄化された者が味わっている祝福の価値を更に高めるのではないだろうか。

私たちは今朝、この問題について黙想を始めた。尚この他にも答えがある。その答えに、私たちは慰められるであろう。今日一日、この問いに思いを巡らせてみようではないか。

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