キリストにある幼子……。《コリント人への手紙 第一 三・1》
信仰者よ。キリストの道を歩んでいるあなたは、「私は何と弱い者か」と言って嘆いているのだろうか。「私の信仰は薄い」と言って嘆いてるのだろうか。「私には愛が殆どない」と言って嘆くのだろうか。
勇気を出しなさい。あなたには感謝すべきことがある。それは次のことであり、決して忘れてはならない。
あなたは、或る点においては、主に大きく用いられ、信仰も内面の生活も豊かに成熟したクリスチャンと同じ資格、同じ力を持っているのである。つまり、あなたはそのクリスチャンと同じように、キリストの血によって贖われた者である。幼児は、成人した両親が現実に生み育てた、我が子である。そのように、あなたも他の信仰者と同じように、神の子とされたのである。あなたは、完全に義とされている。あなたが義とされていることにおいて、他の信者との間に、程度の差はない。あなたには小さな信仰だけがあるだろう。しかし、その信仰によって、あなたは完全にきよめられた。尊い約束については、主に大きく用いられ、信仰も内面の生活も豊かに成熟した信仰者と同じ権利が、あなたにも与えられている。神は、信仰者に恵みを与えてくださると約束しておられる。その恵みを受け取るには、あなたの信仰が成長した後で、その権利が発生するというものではない。神の約束そのものの内に、その権利が保障されているのである。即ち、イエスをどの程度信じているかが、基準なのではない。イエスを信じたことにより、主にあって、恵みを受け取ることが保証されていると確信するのである。あなたは、最も豊かな者と同じように富んでいる。その豊かさを今享受できなくても、あなたの手には権利証がある。あなたは事実、所有者なのである。最も小さな星でも、天において輝いている。そのかすかな光でも、昼をつかさどる太陽の光と、本質的には同じである。天の栄光の戸籍には、小さな者も大きな者も同じペンで記録されている。あなたは、神の家族の中で最も大きな者と同じように、父なる神の心には愛しい者である。イエスは、あなたをとても優しく見守っておられるのである。
あなたは、くすぶる燈心のようだ。憐れみのない者は、次のように言うだろう。「そのくすぶる燈心を消せ。部屋の中に、嫌な臭いが満ちている。」しかし、イエスはくすぶる燈心を消すことはなさらない。あなたは、傷んだ葦のようだ。「私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる神《ハバクク 三・19》」は、指揮者である。その指揮者の手は、何と優しいのだろうか。しかし、神のように憐れみに満ちた手を持たない人は、あなたを踏みつけ、あなたを投げ捨てる。しかし、イエスは決して、傷んだ葦のようなあなたを折ることはなさらない。このように、あなたはくすぶる燈心や傷んだ葦のようであるが、このことで気落ちしてはならない。キリストの中で勝利を得るべきである。
私は、神の家族の中で小さな者に過ぎないではないか。しかし、キリストの中で、私は天のところに座らされている。私の信仰は貧しいではないか。しかし、イエスの内にあって、万物の相続人となっているのである。私には誇るべきものは何もない。あるのは、空しい誇りだけである。問題の核心が私の信仰にあるというなら、「私は主にあって喜び躍り、わが救いの神にあって楽しもう。《ハバクク 三・18》」
注:「傷んだ葦」と「くすぶる灯心」のが両者が出て来るのは、「メシア預言」が語られている《イザヤ書 四十二・3》である。「(彼:メシアは)傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。」福音記者マタイは、このイザヤの預言がナザレのイエスによって成就したと、《マタイの福音書 十二・17~21》に記している。「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。『見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。異邦人は彼の名に望みをかける。』」即ち、ナザレのイエスこそ、聖書に預言されたメシアである。
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