11月15日 神の所有の民

【主】は、測り縄で割り当て地を定められた。ご自分の民、ヤコブへのゆずりの地を。《申命記 三十二・9》

クリスチャンは、どのようにして神の所有の民となったのだろうか。神ご自身の主権に基づき、神がお選びになったことによるのである。神は彼らを選び、ご自身の愛を彼らの上に豊かに、溢れるほどに注がれている。その時、彼らの中に何か良いものがあったから、神は彼らに愛を惜しみなく注がれたのではない。また将来、彼らが善良な民になるから、愛を惜しみなく注がれたのでもない。彼らの状態や働きに関係なく、神はそのようになさったのである。神は憐れもうと思う者を憐み、ご自身が選ばれた者を永遠のいのちに定められたのである。このようして、神がご自身の自由意志により、彼らをお選びになったことで、彼らは神の所有の民となったのである。

クリスチャンはまた、選ばれたことによって神の所有の民となっただけではなく、買い取られたことにより、神の所有の民となった。神はご自身の民を買われた。その贖い金を全額支払われた。彼らが「贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によった《Ⅰペテロ 一・18~19》」のである。神の財産には抵当権は設定されていない。それゆえ、債権者たちによって訴訟が起こされることはない。代価は公の法廷で支払われたのだから、教会は永遠に主の所有となったのである。全ての選ばれた者の上にある、キリストの血の跡をご覧なさい。人の目には見えないが、キリストには知られている。「わたしは、わたしのものを知っている。《ヨハネ 十・14》」主は、多くの人々の間から贖い出した者を、誰一人として忘れることはない。主は、ご自身がいのちを投げ出して救われた羊たちの数を数え、ご自分をお与えになった教会をいつも覚えておられるのである。

クリスチャンは更に、征服されたことによって、神の所有の民となった。私たちが降伏するまで、主は私たちの内で戦って来られた。主はどれ程長く、私たちの心を包囲していたことだろうか。主はどれ位、降伏の条件を出して来られたことだろうか。しかし、私たちは主に対して門を閉ざし、城壁を築いて、主に対抗して来た。主が私たちの心を魅了した、あの栄光の瞬間を覚えていないのだろうか。あの時主は、私たちの心の城壁に十字架をかけ、壁をよじ登り、私たちの砦に、主の血に染まった全能なる憐みの旗印を打ち立てられたではないか。そう、私たちはまさに、主の全能の愛によって征服された捕虜なのである。

このように私たちは選ばれ、買い取られ、征服されることにより、神の所有の民となった。それゆえ、神が私たちを所有する権利は、いかなるものにも譲渡されることはない。私たちは、自らが決して自分自身のものでないことを喜び、日々主の御心を行って、神の栄光を現すことを望んでいる。

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