天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。《コリント人への手紙 第一 十五・48》
頭と器官は、本質的に一つの性質のものである。ネブカデネザルが夢で見た、あの大きな像のようなものではない。彼の見た像の頭は純金であったが、胸と両腕は銀、腹とももは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土であった。実に不思議なキリストのみからだは、このように互いに相容れないものが、奇妙な形で結合したというようなものではない。
みからだの各器官を構成する者は、永遠の死へと向かっていた。それゆえイエスは死なれた。栄光の頭は不滅である。それゆえ、みからだの各器官も不滅の者とされている。なぜなら、「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです《ヨハネ十四・19:新改訳第三版》」と記されているからである。私たちの愛する頭がそうであるように、からだもそうである。特に、すべての器官が同じ性質を持つのである。頭が選ばれているなら、全ての器官も選ばれている。頭が受け入れられているなら、全ての器官も受け入れられている。頭が生きているなら、全ての器官も生きているのである。頭が純金であるなら、からだの全ての部分も純金なのである。このように、頭とからだという二つの性質が一つとなり、類い無き親密な交わりの土台となっているのである。
敬虔な読者よ。ここで立ち止まり、次のことを考えてご覧なさい。そうするなら、大いなる喜びに満たされ、驚嘆するに違いない。「そんなことが、あるはずがない」と言うなら、試してご覧なさい。これである。私たちは、惨めな存在ではあるが、御子と一つのからだとされた。この祝福に満ちた栄光に与ることが許された。私たちは、栄光の御子の内にあって高く挙げられた、ということである。この神の御子の測り知れない謙遜を考えてご覧なさい。私たちは、喜びと驚きを覚えずにはいられない。あなたは、滅びに定められた者であったことを忘れてはならない。それゆえ、あなたは滅びの「穴に向かって『あなたは私の父』と言い、うじ虫に向かって『あなたは私の母、私の姉妹』と宣言《ヨブ 十七・14》」できるほど、卑しい者なのである。しかし、キリストの内にあるなら、あなたは御国を受け継ぐ者とされ、全能の神に向かって、「アバ、父」と言うことが出来る。受肉された神イエスに向かって、「あなたは私の兄弟であり、私の花婿です」と言うことが出来る。確かに、由緒ある高貴な家柄と関係があると、人々は自らが何か偉い者であるかのように思うものである。ならば、私たちはそれ以上なのである。栄光あるお方の跡取りとされているのである。
信仰が乏しく、見下されている信仰者に、この特権を手に入れるように励まそうではないか。その人たちに、愚か者になって、怠けさせてはならない。養子縁組によって立派な家柄の者とされたことに、心が捕らえられるようにさせようではないか。その人たちの思いが愚かにも、今の世のはかない物に囚われ、愛着を抱いていることを放っておいてはならない。その人たちの思いが、この栄光以外のことに捕らわれることがないようにさせようではないか。即ち、キリストと一体となっている、この天来の栄誉に、思いが向けられるようにしようではないか。
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