12月13日 天来の恵みである御言

塩は制限なし。《エズラ 七・22》

主にささげる全焼のささげ物には全て、塩が添えられた。塩は腐敗を防ぎ、物を清める性質を持っている。それゆえ、魂に神の恵みが与えられることに応答する、感謝の気持ちを表す象徴と言える。

アルタクセルクセス王が塩を祭司エズラに与えた時、量を制限しなかった。このことを詳しく学ぶことは、私たちにとって価値のあることである。そして、王の王なるお方がご自身の祭司たちに恵みを分けられる時にも、恵みの量を制限なさることはない、と私たちは確信して良いのである。

私たちは、自分独りだけでは行き詰まることが度々ある。しかし、主の内にあるなら、決して行き詰まることはない。多くのマナを集めようとする者は、望むだけ食べることが出来るだろう。私たちのエルサレムには、そこに住む人々がパンを毎日少しずつ食べ、水を制限しながら飲むというような飢饉は起こらない。恵みの務めには、量って与えられるものもある。例えば、酢や苦味などは正確に量って与えられ、たとえ一滴でも多くを手にすることは出来ない。しかし恵みの塩については、「求めなさい。そうすれば与えられます《マタイ 七・7》」と言われているように、惜しげもなく与えられるのである。果物の入っている戸棚や、甘いものの入っている瓶に、両親は鍵をかける必要がある。しかし、塩の容器には鍵をかけておく必要は少しもない。塩を貪って食べようとする子は、殆どいないからである。

人は、お金や名誉を持ち過ぎることがある。しかし、恵みを多く受け過ぎることはない。「エシュルンは肥え太ったとき、足で蹴った。《申命記 三十二・15》」しかし、恵みが満ち溢れ過ぎてしまうということを恐れる必要はない。恵みが多過ぎるということは、あり得ないことである。富が増せば、心労も増す。しかし、恵みが増せば、喜びが増す。「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。《伝道者 一・18》」しかし、聖霊に満たされれば、喜びも満ち溢れる。

信仰者よ。恵みの御座に近づきなさい。天の塩である生ける神のみことばを、大量に与えて頂きなさい。その塩であるみことばは、あなたが味わう苦悩に味をつけてくれる。苦悩は、みことばによって理解するなら、意味あるもの、価値あるものとなる。また天来の塩であるみことばは、腐敗するあなたの心を守ってくれる。塩が虫を殺すように、神のみことばにより、あなたが罪を犯す危険を取り除いてくれるだろう。あなたは多くの天来の塩であるみことばを必要としている。多く求めよ。そして多くを与えて頂きなさい。

注:「エシュルン」とは、イスラエルの詩的呼称である。意味は、「真っ直ぐな者」であるが、これは皮肉である。イスラエルは神に反抗したが、それが家畜の行為にたとえられている。家畜は肥え太った時、飼い主を足で蹴った。このように、神の祝福に満たされると、イスラエルの民は主に反抗するということである。

12月12日へ  12月14日へ   12月の目次へ  「きょうのみことば」へ

コメント