神が、……とこしえの契約をわたしと結ばれたからだ。《サムエル記 第二 二十三・5:口語訳》
この契約が結ばれた経緯をたどってゆくと、起源は神ご自身であることが分かる。「神が、……とこしえの契約をわたしと結ばれたからだ。」何と崇高なことだろうか、「神が」主体となって結んでくださったのである。
わが魂よ。静まりなさい。永遠の父である神が、積極的にお前と契約を結んでくださったのである。そう、「この世界の全てのもの」に向かい、「現れよ」とたった一言を語るだけで創造なさった、あの神が結んでくださったのである。栄光の御座から身をかがめて降りて来られた神が、お前の手を握り、お前と契約を結んでくださるのである。この神の行為は、途方もない謙遜ではないだろうか。神のこの謙遜の真の意味を理解できたなら、私たちの心は、この神に永遠に魅了されないだろうか。「神が、……とこしえの契約をわたしと結ばれた」のである。
王様が私と契約を結ぶことはなかった。もし結ぶとしたら、それは驚きである。しかし、「全能」と呼ばれ、「主の山に備えあり」と呼ばれ、「世々のヤハウェ」と呼ばれ、「永遠の神」と呼ばれる、地上の王たちの中の「君」であるお方が、「とこしえの契約をわたしと結ばれた」のである。何ということだろうか。
しかし、注目しなさい。その契約の適用は、特別に際立ったものなのである。「とこしえの契約を、神が……わたしと結ばれたからだ」と書かれている。この契約を、それぞれの信者に対し適用する時、それは実に麗しいものである。神がこの世に平和をもたらされても、その平和は私にとって何の意味もない。私が知りたいことは、神が私に平和をもたらしてくださったかどうかである! 神が契約を結んでくださったことは、私にとって些細なことである。私が知りたいことは、「神が、……とこしえの契約をわたしと結ばれた」かどうかである。「神が、……とこしえの契約をわたしと結ばれた」ことを確信することは、何と幸いなことだろうか。聖霊なる神が、この確信を私に与えてくださるなら、キリストの救いは私のものである。キリストの心も私のものである。キリストご自身も私のものである。キリストはわが神である。
この契約の締結期間は、永遠である。永遠の契約とは、その始まりもなければ、その終わりも決してないのである。人のいのち、人の一生において、全てのものが移り変わる。その中で、「神の堅固な土台は据えられて《Ⅱテモテ 二・19》」いることを知ることは、何と麗しいことだろうか。また、神ご自身が「わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない《詩篇 八十九・34:新改訳第三版》」と約束してくださるなら、何と麗しいことだろうか。臨終の床にあったダビデのように、たとい私が願って来たようにではなく、私の家族が神と共に歩んでいなくても、私はこの《詩篇 八十九篇34節》の約束をお語りになっている主を賛美するのである。
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