事の終わりは、その始まりにまさり……。《伝道者の書 七・8》
ダビデが信頼した神であり、主であるお方を仰ぎ見なさい。
イエスの初臨の姿を見なさい。「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。《イザヤ 五十三・3》」イエスのその後の姿が、あなたには見えるだろうか。父なる神はイエスに言われた。「主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。《使徒 二・34~35》」
「この世において、私たちもキリストと同じようである。《Ⅰヨハネ 四・17》」であるなら、当然十字架を負わねばならない。そうでなければ、決して冠を戴くことは出来ない。ぬかるみの中を歩いて渡らねばならない。そうでなければ、透き通ったガラスのような純金で出来ている都の大通りを歩くことは出来ない。哀れなクリスチャンよ。元気を出しなさい。「事の終わりは、その始まりにまさる」のである。
野菜の葉を這いまわる毛虫を見なさい。何と卑しい姿だろうか。しかし、これが事の始まりである。その後の姿を見なさい。あの華麗な羽を持った昆虫、チョウに変えられるのである。日の光の中を舞い、花冠の中より蜜を吸い、幸福と命に満たされている。
あの芋虫はあなた自身である。そして芋虫は「死」という繭の中で、さなぎになる。そして「キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。《Ⅰヨハネ 三・2》」キリストに似た者になることに満足しなさい。その似姿とは次のことである。「私は虫けらです。人間ではありません。《詩篇 二十二・6》」あなたが死から目を覚ます時、主のその似姿に変えられていることに気付くだろう。そのことに満足しなさい。
ダイヤモンドの原石を研磨機にかけると、全面がまさに削り取られる。ごくわずかな部分しか残らない。一見貴重と思われる部分まで、そぎ落とされる。そのダイヤモンドは王冠の上で輝く。喜びのラッパの音と共に、王は自らの頭上に王冠を戴く。その冠はまばゆいばかりに光り輝く。この光は、つい先程まで研磨機にかけられ、削り取られ、磨かれていたあのダイヤモンドが放つものである。
このダイヤモンドに、あなた自身をなぞらえることが出来るだろう。あなたは神の民の一人である。今あなたが置かれているのは、研磨されている時である。信仰と忍耐を完全に働かせなさい。王冠が、「世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神《Ⅰテモテ 一・17》」である御子の頭上に置かれる時、一条の栄光の光があなたからも放たれることになる。主は言われる。「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の【主】は言われる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。《マラキ 三・17》」
「事の終わりは、その始まりにまさる。」
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