12月31日 渇いている人はイエスの御許に

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」《ヨハネの福音書 七・37》

主イエスは忍耐を完全に働かせて、「祭りの終わりの大いなる日に」至るまで、ユダヤ人の心に訴えかけておられた。

同じように、一年を終える大晦日を迎えた私たちの心にも、主は訴えかけておられる。私たちに恵みを与えようとして、待っておられるのである。実に驚くべきは、また、ほめたたえられるべきは、救い主の忍耐深さである。来る年も来る年も、私たちクリスチャンの内には、主を怒らせ、主に反逆し、主の聖霊に抵抗した者たちがいた。それにもかかわらず、主は私たちを我慢してくださったのである。そのような私たちに、今も神の憐れみが注がれていること自体、摩訶不思議なことである。

憐みの思いは、これ以上ない程はっきりと表現された。イエスは何度も涙を流し、叫ばれた。声の限り叫んだというだけではなく、イエスの声音が優しさに溢れていたという意味においても、涙ながらに叫ばれたのである。イエスは、私たちが神と和解するよう懇願しておられる。使徒パウロが書いている通りである。「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。《Ⅱコリント 五・20》」何と厳粛にして、哀れなことばだろうか。主のご愛は何と深いのだろうか。主は罪人たちのために涙を流され、母親がその子どもを愛して胸に抱き寄せられるように、主はご自身の民を深く愛される。そのような主の涙ながらの招きに対し、心を動かさないでいられようか。

備えは十二分になされている。人が魂の渇きを癒すのに必要なものは、全て備えられている。キリストの贖いにより、人の良心にはキリストの平安がもたらされる。福音を理解する力により、人の知性にはキリストの教えがもたらされる。イエスのご人格により、人の心には最も気高い愛の対象が刻み込まれる。イエスの内にある真理は、人の全人格が必要とする最も純粋な栄養を供給するのである。人は、恐ろしいほど激しく飢え渇いている。しかし、イエスはその渇きを癒すことがお出来になる。魂が完全に飢えたとしても、イエスはその魂を満ち足らわすことがお出来になる。

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」無代価で、全く惜しげもなく与えられるとこの宣言されている。渇いている者は誰でも歓迎されるのである。渇いているということ以外には、何の差別も設けられていない。その渇きが、貪欲から出ているものであっても、野心から出ているものであっても、快楽を求めるための渇きであっても、知識を求めるものであっても、或いは安楽を求めるものであっても、渇いている者は誰でも招かれているのである。渇きそのものは、悪であるかもしれない。渇きには、恵みが注がれているしるしは、ない。むしろ、欲望を満足させようとする罪のしるしだけが見られるのかもしれない。また、被造物である人の内に美徳があるから、主イエスが招いておられるのでもない。主は、無代価で、全く惜しげもなく、人を偏り見ることなく、招いておられるのである。

一人の人として、イエスご自身の御許に来るように招かれている。罪人は、イエスの御許に来なければならない。イエスの御業のもとに来るのでもなく、キリスト教の儀式に来るのでもなく、キリストの教えに来るのでもない。十字架で、ご自身のからだの上に私たちの罪を負ってくださった贖い主の御許に、しかも一人の人として来なければならない。血潮を流され、死なれ、三日目によみがえられた救い主は、罪人にとって唯一の希望である。大晦日、太陽が沈む前に、今イエスの御許に行き、主から飲むという恵みが与えられますように。

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」「待ちなさい」とも、「準備しなさい」とも、ほのめかされてはいない。飲むために、何の資格も要求されていない。愚か者でも、泥棒でも、遊女でも、飲むことが出来る。罪深い性格をしているということがイエスを信じる上で、いささかも妨げとなることはない。渇いた人に水を運ぶため、黄金の杯も、宝石を散りばめた聖杯も必要としない。貧しい者がかがんで、ただ口を流れにつけさえすれば良いのである。どんなに汚れた唇でも、重い皮膚病を患っている人の唇でも、神の愛の流れに触れることが出来る。その人たちは、この流れを汚すことは出来ない。むしろ、この水によって自分自身をきよめることが出来る。イエスは、希望の泉である。

親愛なる読者の皆さん。私たち一人ひとりに向かって語られている、親愛なる贖い主の愛の叫び声に耳を傾けなさい。

だれでも渇いているなら、 / わたしのもとに来て / 飲みなさい。

注:「祭りの終わりの大いなる日」とは、7日間続く仮庵の祭りの最終日であり、また同時に安息日が重なる日のことである。聖書では、祭りの日が安息日と重なる時、「大いなる日」と呼ばれている。

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