1月12日 キリストを証しなさい

まだ神のために言い分があるからだ。《ヨブ記 三十六・2》

私たちは、自分の良い行いを広く人々に吹聴したり、或いはまた、自分の熱心さを吹聴したりして、人の称賛を得ようとしてはならない。しかしその一方で、神が他の人の益となるようにと、私たちに授けてくださったものを、いつまでも隠そうとするのは、罪である。

クリスチャンとは、谷間の間に隠れた村ではなく、「山の上にある町《マタイ 五・14》」である。また、升の下の明かりではなく、燭台の上に置かれた明かりである。つまり、クリスチャンは全ての人を照らす「光」なのである。

第一線を退き、ひっそりと暮らすことは、時にかなって美しいことかもしれない。自らを人々の前から隠して暮らすことは、間違いなく慎み深いことである。しかし、私たちの内に住んでいてくださるキリストを隠すことを、決して正当化してはならない。自分自身にとって価値ある真理を隠すこと、即ち、全ての人を照らす「光」を包み隠すことは、隣人に対して犯す罪であり、また神に対して犯す罪である。

あなたは神経質で、控え目な性格なのかもしれない。「私は、人を前にすると、直ぐに震え上がってしまうのです」と言って、この性癖を暴れ馬のように、勝手気ままに振る舞わせないよう気をつけなさい。この性癖のため、あなたが教会にとって無益な者とならないないよう、注意しなさい。あなたを決して恥じることのないお方、主イエスの御名により、次のことを求めなさい。自分の感情は僅かに害することになるだろうが、「キリストが私にお語りくださったことを、他の人に語ることを得させてださい。」あなたは、大きな声で、流ちょうに話すことが出来ないのかもしれない。ならば、小さな声で、静かに話せば良い。あなたは、講壇に上って語るように召されていないのかもしれない。また、マスメディアを使った文書伝道やその他の伝道によって、広くあなたのことばを伝えるように召されていないのかもしれない。けれども、あなたは使徒ペテロやヨハネのように、次のように言うことが出来る。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって……。《使徒 三・6》」あなたは、山上で説教することが出来ないのかもしれない。ならば、スカルの井戸の傍らで、サマリアの女に語りかけなさい。教会の中で語ることが出来ないのなら、あなたの家の中で、イエスを賛美することばを語りなさい。職場の中で語ることが出来ないのなら、畑や野原に出て行って、二人きりになって、イエスをほめたたえることばを語りなさい。著名な人たちの中で語ることが出来ないなら、あなたの家族の中で、イエスへの感謝のことばを語りなさい。心の内から湧き出る隠れたいのちの泉から、麗しい証を、小川の流れのように、湧き出させなさい。そして、全ての道行く人に、そのいのちの泉を飲ませなさい。

あなたの内に与えられている賜物を、隠してはならない。その賜物を用いて、商いをしなさい。そうすれば、あなたの主に益をもたらすことが出来る。神のために語る時、新しい力を頂き、自らをきよめるように導かれる。そのことばによって、聖徒は励ましを得る。罪人は益を得る。そして、救い主を崇めることになる。口を利こうとしない子は、両親にとって悩みの種となる。

主よ。あなたの全ての子たちの舌を、解き放ってください。

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