私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。《コリント人への手紙 第二 四・18》
クリスチャンは、天の御国を目指す旅人である。この旅の途中では、幾度となく、繰り返し将来に目を向ける必要がある。
主から義の冠を頂くが、それは将来の出来事である。天の御国を目指して旅を続けて行くなら、必ずゴールに到達する。あなたが天を目指す理由は何だろうか。希望を得るためか。喜びを得るためか。慰めを得るためか。或いはまた、天への旅を続けて行くなら、私たちの愛は奮い立たたされるが、その愛を得るためだろうか。いかなる理由であるにせよ、結局のところ、信仰の目をもって見つめる対象は、目に見えない雄大な将来である。この将来に信仰の目を向ける時、罪から離れる自分自身の姿を見ることが出来る。また、罪と死を持つ肉体をキリストに従わせる、自分自身の姿を見ることが出来る。更には、魂が完全なものとされ、「光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格《コロサイ 一・12》」を持つ者とされるのを見ることが出来る。
更に前方を見つめる時、信仰者の心の目は開かれ、霊は既に死の川を通過しているのを見る。暗く、うっとうしい流れを歩いて渡り、光の丘に来たのである。丘の上には、天の都が建てられている。信仰者は大きな真珠で出来た門から天の都に入る。信仰者は天の御国に迎え入れられる。戦いに勝利した兵士たちが、大歓声と共に祖国に迎え入れられるように。そして、キリストの手から冠が授けられ、イエスの御腕に抱かれる。イエスと共に栄光を受け、イエスと共に王座に座る。それは丁度イエスが勝利を得て、父なる神と共に神の右の座に着かれたのと同じである。
将来のこの出来事に思いを馳せなさい。そうすれば、過去の闇からも、現在の憂うつからも救い出される。天の御国では、地上で経験した悲しみを償っても尚、余りあるほどの喜びを味わう。
疑いの思いを持つ、わが魂よ。黙れ、静まれ。疑うことなかれ。死の川は、狭い流れである。あなたは肉体の死を迎え、間もなくそこを歩いて渡ることになる。光陰矢の如し、この世では時はあっという間に過ぎる。しかし、永遠の時はどれ程長いのであろうか。瞬く間に死を迎える。しかし、永遠のいのちには終わりがない。思うに、私は既にエシュコルの谷から採って来たぶどうの房から食べ、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、その水を一口飲んでいる。あとわずかの道のりである! 間もなく、天の御国に辿り着く。
「この世では、益々激しく憂いの嵐が吹きすさび、 / 私の心は引き裂かれる。 / しかし、私の思いは天翔り、 / 絶望から身を守ってくれる隠れ家を見つける。 / 天を目指す旅は、間もなく終わる。 / 信仰によって戴いた幻が光り輝き、私に勇気を与える。 / 恐れに悩み、苦難で心に悲しみを抱えながらも、 / 遂に天のわが家にたどり着くのである。」
註:「エシュコルの谷」《民数記 十三・23~24、三十二・9、申命記 一・24》 エジプトを出たイスラエルの民はモーセと相談し、カデシュ・バルネアから12人の斥候:スパイを約束の地に派遣する。遣わす時モーセは、「あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。《民数記 十三・20》」と命じる。12人は「エシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。イスラエル人がそこで切り取ったぶどうのふさのことから、その場所はエシュコルの谷と呼ばれた。《民数記 十三・23~24》」
「ベツレヘムの門にある井戸から水を汲む」《Ⅱサムエル 二十三・8~17、Ⅰ歴代誌 十一・10~19》 ダビデ王が、ペリシテ人との戦いの最中にあった時、ダビデ軍は荒野の中にあり、ペリシテ軍はベツレヘムにいた。わが愛するベツレヘム、わが故郷ベツレヘムが、敵によって蹂躙されることは、ダビデにとって耐え難いことである。ベツレヘムが奪還出来たら…と、側近の者にささやいた。それがこのことばである。「だれかが私に、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらよいのだが」。それを聞いたダビデ軍の中の第二の三勇士が、ベツレヘムを取り囲んでいるペリシテ軍の陣営を突き破って、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来たのである。
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