二つの「メリバ」《出エジプト記 十七・7》12月24日メッセージ
1.二つの「メリバ」
《出エジプト記》には3つのテーマがあります。
1.神は約束したことを実行するのだろうか、ということです。つまり、神はご自身の栄光を現すのだろうか。その約束とは、「出エジプト」の世代から400年も前のアブラハムに約束したことです。
2.メシアによる救いと解放の「型」が、《出エジプト記》には数多く例示されているということです。その型を見ると、メシアによる救いと解放が良く分かるようになっています。
3.神は、ご自身の民を新たに造られる、ということです。その民とは、主なる神を礼拝する民です。いつどのような時にも、いかなることが起こっても、主を信頼し、主を礼拝することが、真に解放された姿です。このように信仰の高みへと、主に導いて頂きましょう。
この3つのことは、私たちクリスチャンにとっても、非常に重要なポイントです。
《十七~十八章》には、レフィディムでの3つの出来事が記されています。1メリバの水事件、2アマレクとの戦い、3イテロの助言です。
飲み水がなく、民はモーセと争い、モーセを殺そうとしました。モーセは、ここで起こったことをいつまでも覚えておくため、この地に「マサ」、または「メリバ」という名前を付けました。マサは「試みる」、メリバは「争う」という意味です。
愛する皆さん。聖書には、もう一つ「メリバ」と名付けられた場所が出て来ますが、ご存じでしょうか。
《民数記 二十・1~13》イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に入った。民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死んで葬られた。そこには、会衆のための水がなかった。彼らは集まってモーセとアロンに逆らった。民はモーセと争って言った。「ああ、われわれの兄弟たちが【主】の前で死んだとき、われわれも死んでいたらよかったのに。なぜ、あなたがたは【主】の集会をこの荒野に引き入れ、われわれと、われわれの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上り、このひどい場所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような場所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏した。すると【主】の栄光が彼らに現れた。【主】はモーセに告げられた。「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、【主】の前から杖を取った。モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」これがメリバの水である。イスラエルの子らが【主】と争った場所であり、主はご自分が聖であることを彼らのうちに示されたのである。
《1節》でミリアムが死んだことが記録されています。出エジプトして、40年が過ぎました。この《民数記》に記されているメリバは、カデシュ・バルネアの近くです。40年、聖霊に導かれて来たイスラエルの民の霊性、信仰は成長したでしょうか。民は、凝りもせず、モーセとアロンに逆らいました。民の不平はこうです。「モーセよ。こんな荒野に連れて来て、しかも飲み水もない。我々をここで死なせる気か。」
愛する皆さん。不平不満を心に抱えている民の信仰は、初心の者と同レベルだということが分かります。全く成長していないのです。むしろ後退していると言えるでしょう。
モーセとアロンは、いつものように主に祈りました。すると、主からの答えがありました。シャカイナ・グローリーが現れ、主から3つの命令が与えられました。第一に杖を取れ。第二に会衆を集めよ。第三に岩に命じよ。「岩」とは、切り立った崖のことです。つまり、水が出る様子を民が全員、目撃できる場所です。そうすれば水が出るという命令です。
モーセは杖を取り、二人は民を岩の前に集めました。ここまでは命令の通りに行いました。しかしこの後、モーセは罪を犯しました。第一に、モーセは怒りに満ちました。肉の思いによって行動してしまいました。第二に、主に栄光をささげず、まるで自分が水を出すかのように振る舞いました。第三に、岩に命じる代わりに、その岩を二度打ちました。これは、主の命令に背く行為です。けれども、恵みにより、水は出ました。この罪により、モーセとアロンは約束の地に入れないという結果を招いてしまいました。
今聖書を読んでいる私たちは、岩を二度打ったのは些細なことのように思えます。けれども神は、この罪を重大なものと判断なさいました。なぜでしょうか。このモーセの行為の背後には、怒りの罪、反逆の罪、自己中心の罪、不信仰の罪などが潜んでいるのです。モーセは自らの肉を選び、高慢になり、「自分」を前面に押し出したのです。最も大きな罪がありますが、そのことは後で述べます。
2.「岩を打て」と「岩に命じよ(岩に向かい告白せよ)」
イスラエルの民の余りの不信仰に対して、さすがのモーセも激怒してしまいまし。その怒りに任せて、モーセはあの奇跡を行って来た杖で岩を二度も打ったのです。この不従順の罪のため、モーセは約束の地に入れなくなりました。
では、《出エジプト記》の「岩を打て」という命令と、《民数記》の「岩に命じよ(岩に向かい告白せよ)」という命令の真の意味は何でしょうか。このことを理解することにより、モーセが犯した罪がいかに重大なものであったかが理解できます。
《出エジプト記 十七・1~7》での命令は、第一に「杖を手に取れ」、第二に「長老たちを数名連れて行け」、第三に「岩を打て」でした。
《民数記 二十・8》での命令は、第一に「杖を取れ」。第二に「会衆を集めよ」、第三に「岩に命じよ」です。それぞれ第一の命令は「杖を取れ」で、同じです。第二の命令が全く違います。《出エジプト》では「長老たちを数名連れて行け」、《民数記》では「会衆全員を集めよ」です。第三の命令は「岩を打て」と「岩に命じよ(岩に向かい告白せよ)」です。この違いには、重要な意味があります。
岩が象徴的に使われているなら、それは必ずメシアを指します。岩が、2回出て来たということは、イスラエルの民の前に、岩なるメシアが二度現れることを表しています。それぞれ、メシアの初臨の型:タイプと、メシアの再臨の型:タイプです。
《出エジプト記》での命令は、「岩を打て」でした。つまり、メシアは打たれるために来られることを表しています。メシアの初臨の目的は、打たれるために来るということです。主の命令の通りに、モーセは一度岩を打ちました。すると、岩から水が流れ出ました。人々は、この水を飲みました。この時、この奇跡を目撃した証人は、ごく少数の限られた長老たちでした。
《出エジプト記 十七・1~8》の出来事は、イエスさまの十字架の死と復活の出来事の型:タイプです。イエスさまの初臨により「いのちの水」が流れ出ました。岩を再び打つ必要はありません。このことを新約に適用すると次のようになります。イエスさまは十字架で一度打たれ、死なれました。三日目によみがえりました。これを目撃し、メシアを信じたのは少数の人々でした。私たちも、イエスさまの十字架の死と復活を信じました。信じた者は、生けるいのちの水である聖霊さまが与えられました。信じた後は、イエスさまの御名によって願うだけ、願いを告白するだけで良いのです。そのことを教えているのが、《ヨハネの手紙 第一 一・9》です。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」つまり、罪を告白することによって、罪が洗われ、生けるいのちの水である聖霊さまが、再び流れるようになるのです。
《民数記》での命令は、「岩に命じよ:岩に向かって告白せよ」でした。これは、メシアの二度目の来臨、つまり再臨の型:タイプだということです。メシアの二度目の来臨、再臨は打たれるためではなく、真の王として、平和の王として世界に君臨するために来られるのです。これが再臨の目的です。
そして岩なるメシアの再臨の条件は、イスラエルの民がメシアに向かい、悔い改め、「主よ、来てください」と告白することです。その時、主は再臨なさるのです。
この時の証人は、全てのイスラエル人です。その時に地上に生きているイスラエル人は皆、全員、イエスさまを信じます。聖書の預言にある通り、大患難時代を生き延びたイスラエル人は皆、イエスさまを信じます。そしてイエスさまに向かい、悔い改め、「主よ、来てください」と告白します。そして、イエスさまは地上に再臨なさるのです。
これが、1回目の「岩を打て」と、2回目の「岩に命じよ:岩に向かって告白せよ」ということです。モーセは、メシアの初臨の型:タイプを正確に伝えることが出来ました。しかし、メシアの再臨の型:タイプを伝えることには、失敗したのです。
モーセは二度目の岩でも、岩を二度も打ちましたが、それが最も大きな罪であったと主はおっしゃいます。そのことを聖書から見ます。モーセが犯した大きな罪とは、《ヘブル人の手紙 六・6》に書かれている罪です。「堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。」
《ヘブル人への手紙》は、1世紀のユダヤ人信者に書かれたものです。迫害の中に置かれ、イエスさまをメシアと信じることを止め、パリサイ人が導くユダヤ教に逆戻りしようとしている信者に向かって語られています。ユダヤ教に逆戻りする人は、神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える罪、「神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする」罪を犯すことになりますと、筆者は警告しています。即ち「もう一度、メシアが来て、十字架にかかりなさい。メシアの初臨の時の十字架の贖い、最初の贖いの業は不完全だった」と表明する罪だということです。
これが、正にモーセが犯した罪だったのです。「メシアの初臨の時の十字架の贖い、最初の贖いの業は不完全だった」と表明した、この大きな罪のゆえに、モーセもアロンも約束の地に入れなかったのです。
3.クリスマスにキリストの十字架を思う
まとめに入ります。1点です。
モーセが犯した大きな罪は、「メシアの初臨の時の十字架の贖い、最初の贖いの業は不完全だった」と言い表す罪です。この大きな罪は、今もキリスト教会の中にありますし、私たちが心の中で犯している罪です。
代表的な教えを今から挙げます。第一は、キリストの十字架の死と、復活を信じて、洗礼を受ければ救われるという教えです。つまり、福音+洗練です。第二は、会衆の前で告白すること。つまり、福音+公の場での告白です。第三は、罪を全部告白しなければ救われないという教えです。つまり、福音+罪の告白です。第四は、自らの罪を悔い改めて、罪を悲しみ、2度と罪を犯さないように決心することです。つまり、福音+悔い改めです。
私たちは、恵みにより、信仰によって救われました。イエスさまの十字架の死と復活は、私のためであったと知り、その通りだと思い、イエスさまは私の救い主だと信じました。これだけで救われたのです。救われているのです。何故でしょうか。主の十字架は完全で、完璧で、永遠の贖いの業だからです。全ての人々の罪、一人ひとりの罪を全て、イエスさまの十字架の血潮は、完全に赦しました。イエスさまの血により、信じた者の罪は完璧に取り除かれました。信じた私たちは、永遠に罪赦された者となり、父なる神から「あなたは無罪だ」と宣言されました。
《イザヤ書 二十八・16》それゆえ、【神】である主はこう言われる。「見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない。
私たち信じた者は、キリストの内に置かれています。キリストの内にある者は、動かされる事はないのです。
愛する皆さん。キリストの福音の神髄は「in Christ」です。私たちは、聖霊さまの働きによって、キリストの内に置かれたのです。最初に信じた時も「in Christ」。天の御国を目指しながら日々救われている今も、これを聖化と言いますが、今も「in Christ」。もう直ぐ携挙が起こりますが、その時復活の身体を頂きます。それを栄化と言いますが、その携挙の時も「in Christ」なのです。このように、完全で、完璧で、永遠の贖いは、「in Christ」で既に完成していると、父なる神はご覧になっています。父なる神がそのようにご覧になるほど、「in Christ」とう現実は、完全無欠です。この真理を信頼すれば良いのです。
パウロが書いた《ローマ人への手紙 七章》は、今のクリスチャンの姿です。「19 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。22 私は、律法を行いたいのに、私は罪の律法の奴隷になっています。24 私は本当にみじめな人間です。」このパウロの姿は、私の姿でもあります。それは「in Christ」を無視した姿です。自分の力で聖くなろうとか、自分の力で神のみことばを行おうとかしている姿です。
けれども《ローマ八章》になると、パウロは、聖霊の導きに従うことで解放されると言います。つまり、「in Christ」の状態で、聖霊に従う時、聖化の過程を歩むことができると言うのです。恵みにより、聖霊に信頼して歩む時、聖められ、信仰が成長するのです。霊性が引き上げられるのです。
イエスさまの十字架の贖いは、完全で、完璧で、永遠に確かのものです。子の贖いを頂いた私たちは今、神の訓練学校の中に置かれています。この訓練を、聖霊さまと共に歩もうではありませんか。
祈り:私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、感謝申し上げます。キリストにより、教会により、栄光が世々にわたって、とこしえまでありますように。主よ。キリストの福音の神髄である「in Christ」を理解し、「in Christ」で聖霊さまと共に歩むことが出来ますように。そしてパウロが理解していたキリストの福音を、私も同じように理解し、体験することが出来ますように。そして、この素晴らしい福音を、一人でも多くの人に分かち合い、多くの人が救いに至る悔い改めに導かれますように。信じる人を起こしてくださいますように。私たち一人ひとりを聖霊に満たし、用いてください。聖霊さま、教会から離れている兄姉の心に触れてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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