契約を結ぶ前、民に必要な備えとは《出エジプト記 十九・1~9》1月28日メッセージ
1.シナイの荒野に移動
《出エジプト記》には3つのテーマがあります。
1.神は約束したことを実行するのだろうか、ということです。つまり、神はご自身の栄光を現すのだろうか。その約束とは、「出エジプト」の世代から400年も前のアブラハムに約束したことです。
2.メシアによる救いと解放の「型」が、《出エジプト記》には数多く例示されているということです。その型を見ると、メシアによる救いと解放が良く分かるようになっています。
3.神は、ご自身の民を新たに造られる、ということです。その民とは、主なる神を礼拝する民です。いつどのような時にも、いかなることが起こっても、主を信頼し、主を礼拝することが、真に解放された姿です。このように信仰の高みへと、主に導いて頂きましょう。
この3つのことは、私たちクリスチャンにとっても、非常に重要なポイントです。
ここまで、民はエジプトから救い出され、今は約束の地を目指して荒野を旅しています。そして、レフィディムから、次の宿営地であるシナイの荒野に入ったところです。
愛する皆さん。出エジプト記では、どの位の年数のことが記録されているのでしょうか。聖書の記録から調べてみました。ヨセフが死んでからモーセが生まれる迄、64年間です。モーセが生まれてから出エジプトまで80年です。ですから、出エジプトの出来事に限った記録は、わずか1年間だけということになります。イスラエルの民が約束の地に入るまでの、残りの39年間の記録は、《民数記》に書かれています。
《出エジプト記》は、前半と後半に分かれます。出エジプトした《十二・1》から、レフィディムに宿営し、シナイの荒野にやって来た《十九・2》までの記録が、前半です。そして後半は、これ以降の《出エジプト記 十九・3~四十・38》で、シナイの荒野での啓示が記されています。この啓示のことを「シナイ契約・モーセ契約」と呼んでいます。そして、この《十九章》は、その契約を結ぶための準備段階のことが記されています。
シナイの荒野に到着したのが、第三の新月の日です。即ち、3月1日です。エジプトを出たのが1月15日ですから、1か月半の時が経ったということです。
10ケ月くらい前だったのでしょうか、モーセがまだミディアンにいて、しゅうとイテロの羊を飼っていた時、シナイ山の麓にやって来ました。モーセは燃える柴を見て、その柴が燃え尽きないので、モーセは近づきました。その時、主はモーセにおっしゃいました。
《出エジプト記 三・12》「 神は仰せられた。『わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。』」
その時に語られた主の約束が、今ここで成就したのです。
ホレブとは山脈で、シナイはその山脈の中の一つの山です。榛名山も同じです。榛名山とは、この山全体の呼び名です。一つひとつの山に名前があります。榛名富士とか、榛名山の一番東にある山を水沢山、そのちょっと西にある高い山を相馬山などと呼びます。それと同じように、ホレブとは山脈で、シナイはその山脈の中の一つの山です。この山の麓には、200万人前後が宿営出来る広大な平地があります。恐らく東側だと思います。そこから、イスラエルの民は、シナイ山にヤハウェが下って来られる様子を目の当たりにするのです。新約聖書で、弟子のペテロとヤコブとヨハネが、イエスさまと一緒にヘルモン山に上り、そこでイエスさまが栄光の姿に変えられた姿を目撃したように、イスラエルの民も、神が聖なるお方であることを知る必要があったのです。
イスラエルの民はこれまで、ヤハウェの数々の奇跡を体験して来ました。エジプトで十の災いを体験しました。過越の夜、死の使いが過ぎ越すことを体験し、エジプト人のあらゆる初子が打たれることを体験しました。葦の海の体験などなど。また、神の守りの御手も体験しました。マラで苦い水が甘い水に変えられました。マナが天から降って来ました。アマレクに対して勝利を収めることが出来た体験等々。私たちが自分自身に何度も何度も語りかけ、教えなければならないことがあります。それは、主の奇跡を体験しても、人の心は変わらないということです。
イスラエルの民も同じです。彼らには開かれていない重要な点がありました。それは何かと言うと、神が聖なるお方であということです。神の聖というご性質です。また、神がどのように、私たち人間を救ってくださろうとしているのか、そのご計画です。そして、神の民として召された者に与えられた使命です。更には、イスラエルの民が、いかにこの世に影響されているのかという自らの姿です。これらの事について、民は全く無知でした。ヤハウェは、民の心からそのエジプトの影響を取り除く必要がありました。
真の神は唯一の神です。そして、人類に対し、また一人ひとりに対して、完全な計画をお持ちで、それを成就なさるお方なのです。ヤハウェはこのことを民に教えるため、シナイ契約を結ぼうとなさったのです。
2.イスラエルの召命と、主への応答
《3節》は、主からモーセへの呼びかけです。状況は、モーセが山を登って行くと、山の上に超自然的な雲が現れました。これはシャカイナ・グローリーと呼ばれるもので、神が臨在しておられることが分かる現象です。モーセは、その主の栄光に向かって登って行ったのですが、山頂ではありません。
《4節》は契約の前提となることです。つまり、過去を振り返り、イスラエルの民に神の恵みを思い起こさせています。「鷲の翼に乗せて」とは、敵から速やかに救い出されたことを指す慣用句です。《ヨハネの黙示録 十二・14》でも使われています。「しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒野にある自分の場所に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前から逃れて養われるためであった。」
「わたしのもとに連れて来た」とは、神の山シナイ山に来たことを指します。そして、イスラエルの民は、神の御業の目撃者、証人となりました。これが、シナイ契約の前提となる出来事です。
《5a節》で、契約の内容が語られています。けれども、ここには訳語の問題があります。「今」は「それで」と訳すべきことばです。即ち、これ程の神の恵みを受けたのだから、「それで」神の恵みに応答し、自らの責務を果たすべきであるということです。真心から、注意深く耳を傾け、喜んで従うなら、ということです。「わたしの契約」とは、具体的には、《出エジプト記 二十・1》~《申命記 二十八・68》に記されている613の項目です。けれども、律法とは一つのものです。613の律法の内、一つでも破るなら、律法全体を破ったことになるというものです。
《5b~6a》は、祝福の約束のみことばです。「わたしの宝となる」とは、イスラエルの民は、神の宝の民となる、即ち、神の私有財産になるということです。そして、主は全世界の所有者です。それゆえ主は、御心のままに、人を祝福したり、罰したりすることが出来る唯一人のお方です。この後イスラエルの民は、カナンの地に入り、カナンの民を滅ぼす戦いに召されます。「彼らを聖絶せよ」と主からの命令が下りますが、カナンの民を滅ぼす戦いは、主がカナンの民の偶像礼拝に対して裁きを下しておられることなのです。主の裁きの器としてイスラエルの民が「宝」として用いられているということなのです。また、「祭司の王国」となるという祝福が与えられました。この王国は、神が律法によって治めてくださる王国です。また、この王国の中に祭司職が設けられ、神との交わりが維持され続けます。と同時に、この王国全体の使命は、諸国民にヤハウェの愛と義を示す祭司となるということです。
「聖なる国民」とは、諸国民の中から分離された国民になるということです。第一に、神を知る知識を持つ民。第二に、神を礼拝し続ける民。第三に、神の律法に従って歩む、特別に分離された民ということです。
この祝福の約束は、私たちにも与えられています。私たちは、イエスさまにとって宝であり、イエスさまを周囲の人々に紹介する祭司であり、この世と分離された聖なる民です。
《6b~8節》には、民の応答が記されています。
《7節》、モーセは民の長老たちを呼び寄せて、主のことばを伝えました。
《8節》民は言いました。「私たちは【主】の言われたことをすべて行います。」主に対して、このように応答しました。が、余りにも軽い、軽薄だという印象がぬぐえません。何故でしょうか。民は、自らの限界を知らなさ過ぎたかたです。そして、モーセは民の言葉を主に届けたました。
《9節》が、主からの答えです。主はおっしゃいます。イスラエルの民は、モーセに語りかける主の御声を聞くことになります。そして、モーセが神に忠実なしもべであることを、民が認めるためです。モーセは、神の家全体の中で忠実に仕えるしもべであり、ヤハウェとイスラエルの民の間に立つ仲介者だということを、民が深く理解するためです。こうして、民はヤハウェと契約を結ぶことが出来るのです。
3.「聖なる神」と出会い
まとめに入ります。
私たち信仰者の土台には、神は絶対的に聖なるお方であるという強烈な出会いが据えられる必要があります。創造主ヤハウェは「絶対的に聖」なるお方。私たちは被造物の罪人に過ぎない、一人の人であり、私は「絶対的に俗」であることをも心の中心に据えられる必要があります。
私たちは聖なる神に対して、あまりにも馴れ馴れしい態度をとっていないでしょうか。イエスさまご自身を、私たちと同じような、単なる人であり、気安く近づける存在として捉えていないでしょうか。確かにイエスさまは、しもべの姿をとり、最も低いところにまで降られました。幼児が母親に接するように、親しみをこめて私たちがイエスさまに近づくことを喜んで受け入れてくださいます。しかし私たちは、イエスさまが礼拝を受けるのにふさわしいヤハウェ:神であることを認めているでしょうか。イエスさまの胸によりかかっていたヨハネは、《黙示録》の中で、栄光のイエスを見た時、その聖さに打たれて倒れ、死人のようになったではありませんか。私たちのイエスさまは、【主】です。旧約聖書に登場するヤハウェです。出エジプト記だけを見ても、ヤハウェは完璧な計画をお持ちで、その計画はことごとく成就します。間違ってしまった、などということは、微塵もありません。このヤハウェが、イエスさまなのです。このお方の前で、平伏し、額ずき、主が言われることはどんなことでも実行しますという、私たちの意識の変化が必要なのです。
神について、私たちは間違った考えを持っていると、鋭い警告を発した人にAWトーザーがいます。この世に迎合して行く20世紀の教会に、大きな警鐘を鳴らした人です。彼は、次のように書いています。「私はあらゆるタイプの講師からメッセージを聞いた。雄弁な説教も、退屈きわまりない説教も聞いた。しかし私の霊性を最も引き上げた講師は、神の御前で畏怖の念に打たれた経験を裏づけとし、その上で神について語る説教者である。そのような人は、時にはユーモアを混じえて語るが、いったん神について語るとなると、声の調子がすっかり変わる。私たちは再び、神を恐るべきお方とし、私たちをひれ伏させ『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能の主よ」と呼ばせるような、神についての昔ながらの考えをもつべきだ。このことが教会にとって、他の何ものにも優って大きな益をもたらす。」
神を真に礼拝する者になることとは、神が「絶対的に聖なるお方」であることに応答する人のことです。もう一度申し上げます。私たちのイエスさまは、【主】です。モーセにお語りになっているヤハウェです。モーセが百パーセント従ったヤハウェです。このお方は完璧な計画をお持ちで、その計画はことごとく成就します。間違ってしまった、などということは、微塵もありません。このヤハウェが、イエスさまです。このお方の前で、平伏し、額ずき、主が言われることはどんなことでも実行しますという、私たちの意識の変化が必要なのです。
《イザヤ書 五十七・15》「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。」
祈り:私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、感謝申し上げます。キリストにより、教会により、栄光が世々にわたって、とこしえまでありますように。聖霊さまによって、主イエスさまはヤハウェなるお方であることを深く理解出来ますように。モーセにお語りになったヤハウェが、人となり、主イエスさまになられたことを、私たちが霊の深みで理解出来ますように。主は「絶対的に聖なるお方」であることに応答し、主の御前にひれ伏す真の人とならせてください。主よ。教会から離れている兄姉の心に触れてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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