大切な三つの事《伝道者の書 三・11》8月13日メッセージ
明後日は敗戦記念日(終戦記念日)です。太平洋戦争が終わった後、日本の小学校では、このようなことが起こりました。教科書の挿入図や絵や字を、黒く塗ることです。なぜでしょうか。書かれていることが嘘だったからです。悲しいことに、戦前、日本の学校では、嘘がまことしやかに教えられ、その嘘を信じていた人がいました。
世界中の人々は、間違ったことを信じています。悲しいことです。真理を知ることから遠ざけられています。残念です。真理を知ったものとして、私はきょう、聖書に書かれていることをお伝えしたいと願っています。
きょうは、《伝道者の書 三・11》から『永遠の時を思う――大切な三つの事――』というテーマで、みことばから恵みを頂いて参ります。
《伝道者の書 三・11》神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
リラックスしてお聞き下さい。今日のみことばが、皆さんの祝福となりますように。
1.すべての人が必ず経験する三つのこと
全ての人が必ず経験することが、三つあります。
第一は、生きることです。動物も生きていますが、動物が悩んでいる姿を見ることは決してありません。でも人は皆、悩みます。不安で夜も眠れないで苦しむ人も沢山います。或いはまた、楽しいことだけを毎日追い求め続けて生きる人もいます。心の中が孤独で、不安だからです。
私は生きることに決めた!と言って生まれて来た人は誰もいません。或いは両親が「あなたを産むことにしたけど、良いかい?」と、先ず相談を受けてから生まれた人もいません。地球の中のどの時代に生まれるのか。どの場所に生まれるのか、自分で選んでいません。皮膚の色も自分で選んでいません。女に生まれるのか男に生まれるのかも選んでいません。両親も選んでいません。このことで人は悩み、苦しみます。そして或る人は言います。「自分で自分の命を断とう。自分の命を殺そう。」確かにこの肉体の命を殺すことはできます。けれども、この肉体の中には、永遠に生き続ける霊、魂があります。この霊、魂を人間は殺すことができません。この霊、魂は天の御国か地獄のどちらかで永遠に過ごすのです。永遠の時の過ごし方は、この地上で生きている間で決まります。
覚えてください。人は永遠に生きるのです。その永遠の時の過ごし方は、地上で生きている間に決まります。
全ての人が必ず経験する三つのことの第二は、死ぬということです。
私は「死ぬ」ことを、若い頃よりもとても身近に感じるようになりました。
《ヘブル人への手紙 九・27》「人間には、一度死ぬこと」が定まっています。全ての人が等しく、必ず死ぬ時を迎えます。ある有名な学者が言いました。「戦争や事故、自然災害で多くの人々が亡くなるのは、とても辛いことです。けれども、冷静に考えるならば、戦争や事故などによって人間の死ぬ数が増えてはいないのです。ただ死ぬ時期が早くなったということです。」
今、私たちは生きています。他の人は今死ぬかもしれないけど、私はまだと思って、死ぬ準備をしません。私も若い頃は、そう思っていました。でも今は、私に残っている日はあとどの位かなあと数えることがあります。
皆さん、死ぬことには、二種類あります。一つは、苦しみを味わう死です。
有名な文豪夏目漱石は、魂の救いを求めていました。聖書も読みましたが、キリストの救いが分かりませんでした。そして最後は自分流の宗教を考え出しました。「則天去私」という考え方ですが、釈迦の説いた「諦めなさい」という教えと似た教えです。漱石は最期、臨終の床で、「ああ、苦しい。ああ、苦しい。今死んじゃ困る、今死んじゃ困る」と言いながら、息を引き取って行ったというのです。心の内に抱えている重荷をイエスさまのもとに下ろすことができず、魂の救いを得られないまま、漱石は死んで行きました。同じように、大多数の人が苦しみを味わいながら死んで行きます。
二種類ある死の内のもう一つ、第二は、祝福された死です。希望にあふれた死です。
少し前のこと、一組の老夫婦が病床で洗礼を受けました。病院のベッドで賛美を歌い、聖書を読み、祈り、洗礼を受け、老夫婦は喜びました。
隣のベッドで、ひとりのご婦人が熱心に聞き入っていました。牧師は声をかけました。「あなたのためにお祈りしましょうか。」「はい、お願いします。」そして祈りました。「主よ、このご婦人の内に魂の平安をお与えください。そして病から解放してください。」続けて言いました。イエスさまを信じますか?ご婦人は「はい」と答えました。牧師は更に続けて言いました。「こんなことを申し上げるのは失礼ですが、心の内に重い荷物をかかえているなら、その重荷をイエスさまのもとに下ろしてみてはいかがですか。」
少し考えていましたが、ご婦人は身もだえするように、言いました。「若い頃、私は5歳になる息子を捨てました……。」その後、涙声でイエスさまを心に迎える祈りをささげました。
次の週、病院にその婦人を訪ねると、ベッドは空いていました。看護師に尋ねました。数日前に亡くなっていました。看護師さんはご婦人の様子を話してくれました。亡くなる前の日、満面に笑みを浮かべ、回診に来た担当医に話したそうです。
「私の罪を全部、イエスさまが赦してくださいました。だから、先生、私の心の内には平安があるんです。安心して、私は天国のイエスさまのもとに行けます。ありがとうございました。先生、お世話になりました。」
このご婦人は、生涯、引きずり続けて来た心の内の重荷を、キリストのもとに下ろし、魂の救いを得、祝福に満ちた死を迎えました。
魂の重荷を主イエスのもとに下ろすことの出来なかった夏目漱石、かたや全ての重荷を下ろすことの出来た病床のご婦人、両者の死は対照的です。
人知れず、心の内に、解決できない大きな問題を、誰でも抱えていて生きています。それは何でしょうか。罪の問題、そして死ぬという問題です。
イエス・キリストは神です。そして人となってくださいました。イエス・キリストは私たちの身代わりとなり、十字架にかかり、死なれました。罪がなく、永遠のいのちを持つイエス・キリストが、私たちの罪のすべてを負って、死なれました。罪の問題、そして死ぬという問題を持っていないお方が、人の身代わりとなって、死んでくださったのです。けれども、三日目に、キリストは死からよみがえり、墓を打ち破って、出て来られました。キリストは、私たちの最大の敵である「罪の問題、そして死ぬという問題」に勝利した、他に比類のないお方です。罪と死を打ち破り、復活したキリストを信頼すれば、今、誰でも、救われるのです。その復活のキリスト、勝利のキリストが、いつも、そして永遠に、共にいてくださるのです。死ぬことは、この肉体という衣服を脱ぎ捨てて、そして御子イエス・キリストにお会いする希望の日を迎えることです。
第三全ての人が必ず経験する三つのことの第三は、唯一まことの神の御前に出て、生涯にしてきたことの全てを裁かれるということです。どこまでも正しい神の御前で、裁判を受けるのです。
《ヘブル人への手紙 九・27》「人間には、・・・・・・死後にさばきを受けることが定まっている」のです。この裁判には、一つも不正がありません。全ての真実が神の御前で明らかにされ、神によって裁かれます。私たちの内、誰一人として、神の基準に従った生活をしている者はいません。
《ローマ人への手紙 三・23~24》「すべての人は、罪を犯したので、神の(基準に達してはいません。)ただ、神の恵みにより、キリスト・イエス(の十字架の死と復活を信頼することによって)義と認められるのです。(あなたは神の基準に到達していますと言って頂けるのです。)」
キリストを信じて、心のお迎えしたクリスチャンは、神の裁きの座ではなく、キリストの裁きの座に立ちます。イエスさまを信頼してこの地上で行った一つひとつのことに、主がご褒美を下さるための裁きです。
2.大切な三つのこと(人が選ぶことができる)
犬や猫は、いつまで経っても歩き方やごはんの食べ方、鳴き方を変えることはできません。鳥や魚も同じです。飛び方を変えたり、泳ぎ方を変えたりすることは決してできません。でも人には、少なくとも三つのことを変えることが出来ますが、変える変えないは人が選ぶことが出来ます。人には自由意志が与えられているからです。
その大切な三つのことの第一は、生き方です。歩み方と言い換えることも出来ます。
《箴言 十四・12》「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」と聖書には書かれています。私たちが見ると、真っ直ぐに見える、正しい道のように見えます。でもその終わりは、悲惨な結果を招きます。だから注意しなさいと主はおっしゃいます。
正しいように見える道とは、お金持ちになり、快楽にふけり、そして人々の評判を得て有名になることを第一にすること、それを熱心に求めることです。そのような生き方に注意しなさいと聖書には書かれています。
《テモテへの手紙 第一 六・7~8》「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。」
或る島に七十五歳の男性が二人いました。一人は有名なお金持ちです。この男性は毎日、暗い顔をして、時には涙を流しながら、生活していました。その人は言いました。「今まで私は、豊かになることが最高のことだ。お金がすべてだと思って来た。けれども違った。私の心の中は真っ暗だ。」もう一人の人は、イギリス人宣教師です。宣教師は言いました。「私は貧しいですが、世界中で一番幸せ者です。私の内には光があります。イエスさまと共に暮らしていますし、イエスさまの福音を人々に分かち合うことが出来るからです。」ニコニコしながら話していました。
大切な三つのことの第二は、自分の人生を誰に任せるのかということです。人生の主人を誰にするのかということです。自分の人生なのだから、自分でやる。これが人の考えです。
人生はよく船にたとえられます。自分の人生という船を、自分の思うままに操縦したら楽しいですね。でもうまくいく時もありますが、うまくいかない時の方が沢山あります。皆さん、考えてみてください。船は故障することもあります。私たちは病んだり、苦しんだりします。船は、他のものとぶつかったら、先に進むことが不可能になります。私たちも周りの人と衝突すると、先に進めなくなってしまいます。最も重要なことですが、船はどこに向かっているか、目的地を明確にしなければなりません。私たちは、どの道が正しいのか、正しくないのか分からないのです。また明日のことは全く分からないのです。でも、主イエスさまは、どれが正しい道なのかご存じです。どこに向かうのか、目的地もご存じです。ですから、自分の人生ですが、主イエスさまに明け渡すことが最も賢明な生き方です。自分の人生という船の船長、主人にイエスさまをお招きすることです。イエスさまが責任を取ってくださいます。イエスさまに明け渡すとは、「後はもうイエスさまが全部してくださるから、私は何もしなくても良いんだ!」ということではありません。イエスさまと話し合う時間を毎日、持たなければなりません。イエスさまとコミュニケーションを持つことです。イエスさまのお考えを知ることです。イエスさまのお考えはすべて聖書の中に記されています。ですから、聖書を読み、イエスさまのお名前によって天の父なる神さまに祈ることです。そして自分の考えも、イエスさまに知って頂くことが大切です。
大切な三つのことの第三は、永遠の時の過ごし方は自分が選ぶということです。
イエスさまはおっしゃいました。《マタイの福音書 七・13~14》「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」
二つの道があります。広い道と狭い道です。大多数の人が大きい門から入り、広い道を通っています。狭い道は、狭い門から入り、細くて、険しい道です。けれども、確かに永遠のいのちに至る道です。
どちらを選び取るかは人が自分で決めるのです。自分で頑張り、自分の経験や知識を頼る生き方、お金を頼り、人を頼る生き方は広い道です。狭い門は十字架のかたちをしています。十字架のもとに来て、自分の心の醜さ、いやらしさ、酷さ、ずる賢さ、何食わぬ顔で嘘をつくことを正直に認めて、自分のためにイエス・キリストが十字架でいのちを捨ててくださり、よみがえってくださり、今、私を救ってくださるとイエスさまを信頼すればよいのです。イエスさまを毎日、信頼し続けることが狭い道の歩み方です。
地上の歩み方、生き方は、自分で決めています。けれども、その生き方は、永遠へと続いているのです。
どうぞ、イエス・キリストを自分の人生の主人として招いてみてください。そしてもっともっと、イエスさまと語り合ってみてください。そして毎日イエスさまを信頼し続けてください。イエスさまをもっともっと体験してみてください。求めましょう。イエスさまは必ず答えてくださいます。
祈り:天のお父さま。感謝申し上げます。十字架の死に至るまで私たちを愛し、救ってくださったイエスさまに、真心から感謝します。イエスさまの十字架の死と復活の恵みによって、私たちは救われ、永遠のいのちを頂くことが出来ました。主イエスさまの愛を知ることが出来ますように。そしてキリストの福音を誇りとし、私たちの周りの苦しんでいる人にキリストの福音を分かち合わせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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