羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。《ルカの福音書 二・20》
羊飼いたちは、何について賛美したのだろうか。
彼らは先ず、「聞いたことのすべて」について、神を賛美したのである。即ち、救い主が自分たちのためにお生まれになったという、大いなる喜びの訪れのために賛美したのである。私たちも彼らに倣おうではないか。イエスと、イエスの救いについて聞いたことを、私たちも感謝の歌を神にささげようではないか。
羊飼いたちはまた、自分たちが「見たことのすべて」について神を賛美した。見たことについて神を賛美する時、それは最も妙なる調べとなる。私たちの経験したこと、私たちの内に感じたこと、私自身が確信したこと、これらの経験は、つまるところ、王の王に私たちが触れた出来事である。そして、これらの経験がその調べとなるのである。イエスについて聞くだけでは十分ではない。単にイエスについて聞くだけでは、立琴を調律するに留まるだけである。生ける信仰という「指」が、神への賛美を奏でるのである。あなたには、神から与えられた信仰の目でイエスを見た経験があるだろうか。そうであるなら、立琴の糸に蜘蛛の巣などを張らせてはならない。声高らかに主権者の恵みを賛美しなさい。あなたの手にある楽器や立琴の音を呼び覚ましなさい。
羊飼いたちは、なぜ神を賛美したのだろうか。「見たことのすべて」と「聞いたことのすべて」が一致した、という一点に尽きるからである。「御使いの話のとおりだった」という箇所に目を留めなさい。
あなたは、福音が聖書に書かれた通りの内容であることに、気づいていないのだろうか。イエスはあなたに、「わたしがあなたがたを休ませてあげます《マタイ 十一・28》」と言われた。あなたはまだ、主の内にある、この世のものとは全く違う、素晴らしい平安を味わったことがないのだろうか。イエスはあなたに、「わたしを信じて、喜びと慰めといのちを得なさい」と言われた。あなたはまだ、これらすべてのことを受けてはいないのだろうか。主が歩む道は喜びに満ち、主の小道は平安に満ちているのではないだろうか。あなたはきっと、シェバの女王と共に次のように言うに違いない。「私にはその半分も知らされていなかったのです。《Ⅰ列王記 十・7》」私は、キリストのしもべたちが語って来たことよりも遥かに優って、キリストがいとも麗しいお方であることを体験して来た。私は、彼らが描いたキリストの姿を眺めて来たが、キリストと見比べるなら、単に「塗ってあるだけの物」に過ぎなかった。王の王であるお方は、その美しさにおいて、想像し得る、いかなる美しいものより、それらを遥かに凌駕しているのである。確かに、私たちの「見た」ものは、私たちが「聞いた」ものと一致する。それどころではない。主は、私たちの見聞きしたことを、遥かに凌駕しているお方なのである。
それゆえ、これほどまでに尊く、恵みで満たしてくださる救い主をお与えくださった神の栄光をたたえ、神に賛美をささげようではないか。
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