1月31日 主は私たちの義

「【主】は私たちの義」。それが、彼の呼ばれる名である。《エレミヤ書 二十三・6》

キリストは完全に、そして永遠に、義である。御父は、キリストを死者の中からよみがえらせた。キリストが義であるからである。

キリストが、そのように義なるお方であることを思い巡らしなさい。そうするなら、クリスチャンよ、ゆったりと落ち着くことが出来る。心の深みに静けさが与えられる。魂が休息を得、キリストの平安を頂くことができる。神の聖徒たちが落ち込み、悲しみに沈むとは、何と言うことだろうか! 私は、そうであってはならないと思う。クリスチャンが「キリストにあって完全な者」となっていることを真に知るならば、そうはならないと私は思う。(1月28日のメッセージを繰り返し熟読されたい。)

常に、自らの魂が腐敗し、堕落していることを告白し続けている人がいる。また生まれながらの、心の内に宿っている悪い性質を口にする人々がいる。それは確かに真理である。しかし、なぜもう少し踏みこんで、真理に目を留めようとしないのだろうか。なぜ、「キリストにあって完全な者《コロサイ一・28》」であることを忘れてしまうのだろうか。自分の魂が腐敗し、堕落していることのみを見つめている人が、憂うつな顔をしているのは至極当然のことである。しかし、「キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。《Ⅰコリント一・30》」キリストは私たちに義をお与えてくださったことを思えば、元気になれるはずである。確かに、日々の生活において、苦難に苦しむ時が多くある。サタンに攻撃される時もある。このように、天の御国に移されるまで、多くの経験を経なければならない。しかしそれらは皆、神の許しの中で、私の益となるために、起こされている事柄なのである。

私の主は、完全無欠のお方である。欠けたところが何一つない。キリストは全てを成し遂げてくださった。十字架上でキリストは、「完了した《ヨハネ 十九・30》」と言われた。「完了した」のであるから、私もキリストにあって完全な者となっているのである。私は、「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍る《Ⅰペテロ一・8》」ことが出来る。「律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つ《ピリピ三・9》」者となっているのである。

キリストだけが義である。心で主を信じる者は、神から義と認められる。これが聖書の重要な教えである。このことを心で信じた人たちこそ、今のこの時代、聖徒と呼ばれているのである。信者が「私はキリストにのみ信頼を置いて生きている。私はキリストの救いにのみ、魂の休息を見い出している。私自身は価値のない者であるが、イエスの中にあって救いを得ていることを信じる」と告白する時、次のように感謝する思いが、心の中に湧き上がって来る。「キリストのために生きるべきである。キリストの功績によって救われたゆえ、キリストを愛し、キリストに仕えるべきである。」「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる……生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。《Ⅱコリント五・14~15》」

私たちは、転嫁された義によって救われたのである。ならば、この与えられた義を、大いに評価すべきではないか。

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