2.青木牧師との出会い

追悼 青木 恵牧師

(写真は、今市断食祈祷院のチャペルです。)

そこで、モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、モーセは神の山に登った。《出エジプト記 二十四・13》

エリシャは引き返して、一くびきの牛を取り、それを殺して、牛の用具でその肉を調理し、人々に与えてそれを食べさせた。それから彼は立ってエリヤについて行き、彼に仕えた。《列王記 第一 十九・21》

神の人モーセに仕えたヨシュア。主の預言者エリヤに仕えたエリシャ。従者としてのこの二人の姿は、イエスさまを除けば、クリスチャンの手本と言えます。

30年間、青木先生にお仕えさせて頂きましたが、私のそれは当然のことですが、この二人の姿には遠く及ぶものではありません。幾度、不従順を悔い改めことでしょうか。洗礼を受けた翌年、復活の主から「青木牧師に仕えなさい」と命じられました。この主からの命令が唯一の支えであり、またこの命令に何度も何度も立ち返るような、不信仰で不従順な者でした。その最大の原因は、青木先生が持っていた信仰の特徴を理解していなかったことに尽きます。

私が初めて青木先生にお会いしたのは、1988年7月でした。純福音前橋教会の礼拝に出席したのが、初めてでした。その後は毎週のように出席しました。

青木先生は、後述しますが、祈りの人、ビジョンの人、パッション(情熱)の人です。主への思いや、主から頂く思いやビジョンが、周りの人より1歩も2歩も先んじていました。先生は、祈りの内に、主からのビジョンを頂き、霊に燃え、主に仕え、既に主と共にそのビジョンの内を歩んでいました。先生がそのように信仰によって歩んでいることが、私には全くわからなかったので、なぜそのようなことを言うのか、そのような事をしようとするのか、私には先生が理解できませんでした。それは丁度、イスラエルの民がモーセを理解できず、モーセに反抗したのに似ています。加えて、先生は言葉の人ではないので、周囲の人に誤解を与えたり、誤解されたりしていました。また、口調が激しくなることもしばしばあったので、傷つく人もかなりいました。私もその内の1人でした。

1989年4月、青木先生の牧会的な配慮のない一言に、私は傷つきました。5月のゴールデンウィーク、今市断食祈祷院で断食聖会が開催され、私はそこに参加しました。最終日の聖会で、「前橋に帰り、青木牧師に仕えなさい」と語られました。その時です。私は、誰かに抱かれているかのような感覚を味わいました。すると、主イエスさまが青木先生をどれほど愛しておられるのかが、私は知りました。イエスさまが青木先生を愛しておられるその愛が、私にも与えられたのです。その主の愛によって、私は青木先生を愛するように変えられました。更に不思議なことですが、私の心が低くなっているのが分かりました。前橋に戻り、青木先生のもとに行き、悔い改め、仕えさせてくださいと申し出ました。

そうではあっても、まだまだ肉に付いてしまっていた私は、何度も何度も不従順な思いになり、主に悔い改めました。その度ごとに、「喜んで仕える霊」に私は支えられて来ました。主に立ち返るたびに、主が直接お取り扱いくださる恵みにも預かりました。数回、祈りの中で直接、主の御声を聞く恵みも経験させて頂きました。また、人間の力では「仕えること」の難しさも教えられました。魂が砕かれなければ、仕えることはおぼつきません。このことは、若い働き人の方々に、是非お分かちしたいと願っていることです。

このようにして、30年間、主の選びの器である青木先生に仕えさせて頂くという大きな恵みに預かることが許されました。今、こうして振り返ると、30年前の時点で、今のように青木先生の信仰の特徴を理解することができていたらと、返す返すも残念に思いますし、イエスさまに不従順であった自分を恥じています。

私の信仰生涯の中で大きな影響を受けた先生が3人います。救われ、洗礼を受けた小岩栄光キリスト教会の吉山先生、今も交わりを持たせて頂いている福音伝道教団 いこいのみぎわ教会の荒川先生、そして師と仰いできた青木先生です。3人に共通していることは、キリストのために命をかけ、キリストの福音が広まることに命懸けで戦っていることです。先生方と出会うことが許され、お仕えでき、交わることが許されことは、何という幸いでしょうか。私も、先生方のように、霊に燃え、主にお仕え致します。

主に心から感謝をささげます。

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