私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。《ローマ人への手紙 一・16》
私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。《コリント人への手紙 第一 九・23》
パウロの最大の関心事は、福音と、福音を伝えるために生きることでした。福音のために全てのことをしました。
青木先生も同じでした。福音を広めるため、生涯をささげました。
(1)主に真実を尽くす人 青木先生から教えられたことの中で、今でも私の信仰の土台にあることが、「主に対して真実を尽くしなさい」ということです。聖霊さまに、自分の思いの中を探っていただく時、先ず基準とすることが「主に対して真実を尽くすことになるのかどうか」ということです。青木先生の信仰の土台は、「主に対して真実を尽くす」ということでした。
(2)祈りの人 初めて青木先生にお会いした1988年、私は主に祈りたいと思うようになり、或る日の朝、教会に行きました。礼拝室に入ると、説教壇の向こう側から、青木先生の異言の祈りが聞こえていました。その時です。主の臨在を感じ、「主イエスさまと青木先生が、会話をしているようだ」と思い、聖なる恐れを抱きました。
青木先生の恩師である、ヨイド純福音教会のチョー・ヨンギ先生は、「日本一千万救霊のために、牧師・教職者は毎日3時間祈りなさい。信徒は1時間祈りなさい」と教えていました。青木先生は、その教えを忠実に実践していました。「1日3時間も、どうやって祈ったらよいのか」といぶかしがる日本人クリスチャンに、チョー先生は「主の祈り」に従って祈るように教えていました。青木先生は、そのチョー先生のセミナーテープを文字に起こし、自ら実践し、教会員にもそのコピーを渡していました。毎日、朝5時過ぎから3時間祈ることが、青木先生の日課となっていました。祈りの中で、主からのビジョンを頂き、実践していました。その祈りの小冊子を用いて、私も祈りの訓練をさせて頂きました。1989年の5月から翌年の3月まで、殆ど毎朝、青木先生と共に祈りの時を持つことができました。
(3)ビジョンの人 恩師のチョー先生は、「日本一千万救霊」というビジョンを掲げ、日本リバイバルのために労していました。青木先生も、一人でも多くの日本人を救いに導くことをビジョンとして受け取っていました。
洗礼を受けた後、千葉県で開かれた断食聖会に参加し、帰りの電車の中で見せられた幻。同じ車両の中の人が、たった1人の乗客を除き、全員肩で息をしている「けだもの」に見え、「これが、まさに日本の霊的現状です」と主から教えられ、魂の救いのため立ち上がりました。
また、神学校卒業後、自宅でご夫妻が心合わせて祈っている時、妻のつくも先生を通して主が語られました。「あなたです。あなたが立つのです」と、明確に主から語られ、主の召しを受け取り、救霊のために立ち上がりました。
主は、青木先生を通して働かれ、前橋、大宮、横浜で魂が救われ、教会開拓が進んで行きました。(横浜教会は、中心的に働いてくださった1家族がご主人の転勤で大阪に行くことになり、1995年に閉じました。そのご夫妻は、愛知県で、今も主に忠実に仕えていらっしゃいます。)
ブラック・ゴスペル(アフリカ系アメリカ人の黒人霊歌がルーツの讃美歌)を通して主は魂を救われるというビジョンも、祈りの内に与えられました。ラニー・ラッカー氏に連絡を取った直後、青木先生は祈りの内に、「ラッカーさんは前橋に来なければならない!」という確信を持ちました。そして、11月の最初の礼拝で、「来年の三月に、一流のミュージシャン、ラニー・ラッカーがこの教会に来ます!そして、何十人もの若者が、ここでゴスペルを歌い踊り、救われます!」と語りました。そして、実際その通りになって行きました。
礼拝室の一角に洗礼槽(洗礼用の水槽)を新設したのも、救霊のビジョンの一環でした。
常々青木先生が語っていたことは、「韓国の教会は、大木のように、非常に大きく成長する。アメリカの教会は、林のように、大きな教会が林立する。日本は、草原のように、小さな教会が至る所に生まれる」ということでした。20名前後の教会でも構わない。主の導きがあれば、教会を建てるのが、青木先生が主から頂いたビジョンでした。
(4)パッション(情熱)の人 青木先生の思いは、魂の救いと成長、そして日本のリバイバルでした。自分の教会が大きくなることは考えていませんでした。日本人の救霊とリバイバルでした。目の前の魂が救われることでした。これは決して誇張ではありません。私が救われ、受洗した小岩栄光キリスト教会の吉山宏先生も、同じことをおっしゃっていました。また、吉山先生と共に主に仕えていた兄姉も、次のように証していました。「吉山先生は、自分の教会が大きくなることは考えていませんでした。日本人の救霊とリバイバルでした。目の前の魂が救われることでした。」
礼拝に初めて出席する人がメッセージに聞き入っていると、メッセージ後、その方のもとに行き、「イエスさまを、心にお迎えしますか」と尋ねるのが常でした。
1992(平成4)年5月、或る兄弟のお母さんが生まれて初めてキリスト教会の礼拝に出席しました。メッセージ後、青木先生がその女性のもとに行き、「イエスさまを心にお迎えしますか」と尋ねると、その女性は直ぐに「はい」と答え、先生が祈りを導きました。祈りの直後、その方は涙を流しながら、嗚咽していました。聖霊さまの導きにより、明確に救われ、その後洗礼を受け、教会生活を続けています。
大宮教会に出席していた或る女性には、愛知県に妹さんがいました。その方と、大宮教会で聖書研究をし、その愛知県の妹さんの救いのために祈っていました。その後、聖霊さまが妹さんに働きかけ、イエスさまを受け入れ救われました。妹さんは直ぐに「洗礼を受けたい」と言い、前橋教会まで、一家4人車でやって来ました。青木先生は、妹さんの救いを確認し、その後、運転で同行して来たご主人に福音を語ると、その場でイエスさまを受け入れ、救われ、一緒に洗礼を受けました。2人の子どもたちもイエスさまを受け入れ、救われました。1993(平成5)年8月の出来事です。
青木先生は、魂の救いと成長、日本のリバイバルが最優先事項でした。そのために、命懸けで主に従っていました。私たちは、自分の問題の解決や、必要が満たされること、自分の思いが成し遂げられることを最優先にしていました。それはまるで、モーセとイスラエルの民の関係のようでした。自分の問題解決を最優先にしているイスラエルの民は、モーセに反抗しました。モーセは孤独の戦いを強いられました。同じように、青木先生も周囲の人から理解されることなく、孤独の戦いの中を通っていました。
(5)強すぎるリーダーシップの人 青木先生は、教会員たちを強いリーダーシップで導いていました。強すぎたため、教会員の自由意志が尊重されるよりも、牧師に言われたことだから従うという雰囲気が、教会内に強かったように思います。従順を強調していました。
私が初めて教会の日曜日礼拝に参加した時、「堅苦しさ、窮屈さのある教会だな」というのが、第一印象でした。私が救われ、洗礼を受けたのは、アメリカに本部のあるアッセンブリー教団でしたから、韓国に本部のある純福音教団はなおさら堅苦しく感じたのかもしれません。
私は或る時期、教会がカルト化していると感じたことがありましたので、率直に青木先生ご夫妻に伝えたことがありましたが、先生ご夫妻は受け合わず、「そうですか?」と軽くあしらうだけでした。私と同じように、教会がカルト化していると感じ、去って行った兄姉も実際にいました。
(6)まとめ 私は、青木先生から多くのことを教えて頂いたことを感謝してます。プライドを捨て、自己実現や自己満足の思いを捨て、謙遜に、主に仕えることは、私たちが負うべき十字架だということです。
或る時、信徒のみで運営するキリスト教団体の集会に参加した時のことです。司会者の兄弟が、次のような内容の発言をしました。「牧師先生方も、私たちのこの団体に入会して、謙遜に、主に仕え、兄姉に仕えることを学ぶことをお勧めします。」その時青木先生は、次のようにおっしゃいました。「あの兄弟は、真の謙遜も知らなければ、真に主にお仕えすることも知らない。謙遜に、主にお仕えすることは、そんな軽薄なものではない。大変厳粛な歩みだ。」青木先生の言葉はここまででしたが、恐らく「謙遜に、主にお仕えすることは、自我の死だ」と言いたかったに違いありません。 次のようなこともありました。私が初めて前橋教会の礼拝でメッセージをさせて頂いた時のことです。講壇に立って、祈り、メッセージを始めようとすると、私のイメージ中ですが、次のようなことが起こりました。私が立っている所が低く、低く下って行き、下に沈んで行くように感じたのです。「青木先生は、主の御前に心へりくだり、謙遜に主に仕えていらっしゃる。主の御前にへりくだっている」ということを実感した時でした。
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