5月15日 戒め通りの愛

私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。《ヨハネの手紙 第一 三・23》

キリスト者は、十字架で死なれたイエスさまの愛によって、新しく生また者です。ですからイエスさまの愛に感謝し、イエスさまのように愛の生活をしなければなりません。

キリスト者は、憎しみを警戒しなければなりません。その理由は、憎しみは私たちをサタンの試みに陥れる、心の病気だからです。私たちは、憎しみの誘惑に陥らないために、いつも主に祈らなければなりません。罪を犯し、堕落した人の心の性質は、「憎しみ」です。アダムが憎しみを持つようになると、罪を犯した責任を天のお父さまとエバのせいにしました。エバは蛇のせいにしました。誰でも憎しみを持つと、すべての間違いの原因を人のせいにし、呪います。

「憎しみ」は殺人、滅びを引き起こします。カインは憎しみをもって、アベルを石で打ち殺しました。これが人類最初の殺人でした。この時から人類は戦争を開始しました。人間は戦争に飽きると、平和を求めます。平和に暮らしていても人を責め続け、また戦争を始めます。人類の歴史は血の歴史です。これは結局、人間がどれほど互いに憎しみ合う者であるかを、私たちに教えています。悪口を言い合う者であるかを見せています。憎しみは殺人の根です。

誰でも憎しみを持てば破壊的になり、人と人とを引き裂くようにさせます。憎しみは、私たちからイエスさまの信仰と希望と愛を、奪います。このために憎しみを持った人は、否定的になります。私たちは憎しみのない所では、生きられないのです。なぜなら、この世のどこへ行っても、憎しみが満ちているからです。

私たちの心の中で、憎しみの炎が燃え上がる時がよくあります。憎しみに心がとらわれた人は、必ずイエスさまの愛から離れます。信仰から離れます。ですから私たちは、「天のお父さま、私を憎しみから救って下さい」と常に祈らなければなりません。神さまは愛です。愛は、人に責任をなすりつけるのではなく、自分が責任を負います。愛は、自分のことをわかってもらうことよりも、隣り人を理解します。愛は、受けようとせず、与えます。愛は、相手を縛るのではなく、自由を与えます。愛は、心を閉ざすのではなく、心を広く開けるのです。愛は、死ではなく、いのちを与えます。ですから私たちが愛である主に祈り、力を受ければ、その力によって憎しみを克服し、愛することができるのです。

私たちが祈る時、聖霊さまが私たちを助けて下さいます。そして私たちをサタンの試みから、救って下さいます。そうでなければ、試みに落ちるしかありません。私たちを試みに落とそうとする憎しみの誘惑に打ち勝つためには、祈らなければなりません。祈るなら、私たちは憎しみの誘惑に打ち勝ち、イエスさまを第一とする生活を送ることができます。「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません《Ⅰヨハネ三・15》」と書かれている通りです。

お祈り:愛の天のお父さま、私たちを愛によって守って下さる恵みに感謝します。イエスさま、私と家族が主の愛によって生きるように、助けて下さい。家族の中に憎しみがなくなるようにして下さい。家族が愛をもって一つになれるように助けて下さい。憎しみを心に持ち、苦しんでいるすべての人々が、主の愛によって相手を赦し、憎しみから解放されますように働いて下さい。イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン

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