「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。《ペテロの手紙 第一 一・24~25》
聖書には神さまの約束が数多く書かれています。(或る人が調べたところ、3万2千5百もあります。)これはただ単に、“絵に描いた餅”のようなものではありません。実際に体験できる約束のことばです。私たちが祈り求めるならば、必ず神さまはその約束を成し遂げて下さるのです。
この驚くべき神さまの約束のみことばを、私たちが体験するためには、第一に、神さまに期待し、心を静め、祈りながら、じっくりと味わいながら読むことが大切です。期待しないで適当に読むのは止めましょう。
次に、みことばを読む時はいつも、口で告白しながら読むことも大切です。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです《ローマ十・10》」と書かれている通りです。心を静め、祈りながら、じっくりと味わいながら読んだみことばを、口で告白する時、そのみことばからイエスさまの復活のいのちと平安、喜びと力が、心の内側に湧き上がることを体験するのです。
第三に、みことばを目から離してはなりません。イエスさまは約束のみことばを必ず私に実現して下さる!と信じて、イエスさまと、そのみことばから目を離さないでいるのです。イエスさまのみことばの約束をしっかりと握っているのです。そして次のように祈るのです。「天のお父さま、私の罪と呪いを背負われ、私の病気を担って下さったイエスさまが、この病気をいやして下さると信じます。イエスさまの十字架と流された血潮によって、健康になった私自身を心の目で見続けます。聖霊さま、感謝します。」私たちが約束のみことばを強く握って、このように告白する時、そのみことばがいやしの働きとして現われるようになるのを体験します。
この世の中には、大きく分けて二種類のことばがあります。いのちを与えることばと、死をもたらすことばです。聖書のみことば、すなわちイエスさまのことばはいのちを与えることばです。世の中のことば、すなわち悪魔のことばは死をもたらすことばです。どちらのことばを聞いて従って行くのかによって、次に来る世界、永遠の世界での運命が変わることになります。あなたはどちらのことばに従っていますか。もちろん私たちは神さまのみことば、聖書のみことばに従って行かなければなりません。「わが子よ、聞け。私の言うことを受け入れよ。そうすれば、あなたのいのちの年月は増す。私は知恵の道をあなたに教え、まっすぐな道筋にあなたを導いた。あなたが歩むとき、その歩みは妨げられず、走っても、つまずくことはない。訓戒を握りしめて、手放すな。それを保て。それはあなたのいのちだから。悪しき者たちの進む道に入るな。悪人たちの道を行ってはならない《箴言 四・10~14》」と書かれている通りです。
父・子・聖霊の神と聖書のみことばは一つです。みことばを口で告白するところに主がおられ、聖霊さまの力があらわされます。ですから、私たちがみことばを聞き、みことばを読み、口で告白する時、またそれを生活の中で行う時、主の偉大な働きを体験することができます。主なる神が永遠のお方であるように、みことばも永遠です。この世のすべてのものがみな変わっても、みことばは決して変わることがありません。「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ《Ⅰペテロ一・24》」のです。
この永遠の聖書のみことばは、主なる神さまと決して分離することはできません。ですから、私たちはみことばを目から離さないで常に読み、告白し、守り行わなければなりません。そうする時、イエスさまからいのちを頂いて、偉大な神さまのみわざを体験しながら生活をして行くことができるのです。
お祈り:全能なる天の父なる神さま、この世はいつも戦争のうわさで騒がしいです。しかし、私たちはみことばをとりでとして、救い主を見上げます。私と家族をみことばで支えてくださり、希望を失わないようにして下さり、平安を与えてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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