あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。《ペテロの手紙 第一 五・7》
天の父なる神さまは、私たちの祈りを聞いてくださいます。けれども、私たちは祈ったあと、その問題を主の御手にゆだねなければなりません。問題を毎日、自分の手にしっかりとにぎり、不安と恐れが心に満ちているならば、神さまの答えを受け取ることはできません。
名医にかかり手術を受けたいならば、医者に自分のからだをまかせなければなりません。手術を受ける患者が医者に「ああせよ、こうせよ」と言うならば、医者は決して手術をしません。患者は医者に自分のからだをすべてゆだねるのです。そうして初めて医者は手術するために麻酔をし、患者を死んだ人のようにして手術を始めるのです。
神さまからの祈りの答えも、これと同じです。人間が自分の力でもがいている時には、神さまは助けることができません。自分勝手に振る舞っている人を、どうやって助けることができるでしょうか。人間の力では問題を解決できないことを知り、「主よ。もうどうしようもありません。私にはできません。生きるも死ぬも、始まるも終わるも、盛えるも衰えるも、たとえ死んでも、すべてを主にゆだねます」と言う時、神さまは答えてくださるのです。
神さまも、私たちが死んだ者のようになった時、空の星のような祝福、海の砂のように数えられないほどの祝福をくださいます。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」と、きょうのみことばに書かれている通り、神さまは問題をすべてゆだねる時、心配してくださいます。ゆだねてもいないのに、心配してくださるようなことはしません。心配してくださるとは、気にかけてくださる、世話をしてくださるということです。
私たちが自分の欲に従って求めたり、行動したりしていることをすべて振り切って、主にゆだね、聖霊さまの助けを受けて、最善を尽くす時、私たちの祈りに答えてくださるのです。一切をゆだねるということはどんなに大切なことでしょうか。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって《ゼカリヤ 四・6》」と書かれています。神さまの答えは、私たちが一切をゆだねる時に受けられます。
ほとんどのクリスチャンが教会へ来た時は「主よ。この問題を一切ゆだねます」と祈りますが、教会から帰る時は「今度来たら、またゆだねます。今はまた、問題を持って帰ります」と神さまに向かって言っています。神さまが創造的な働きをしてくださるための機会を与えないから、答えを得られず、弱い信者になってしまうのです。人間の医者には自分の大切ないのちをゆだねますが、天と地と万物を創られた神さまには、なぜ一切をゆだねることができないのでしょうか。悔い改めて、神さまにしっかりと立ち返り、全幅の信頼を寄せ、自分の貪欲の縄を切り、自分の力でやってみようという思いを捨て、一切を主にゆだねることで、答えを頂くことができるのです。
お祈り:私たちを顧みてくださる天の父なる神さま、感謝します。私と家族がすべてを主にゆだねられず、神さまから遠ざかっていたことを赦してください。これからはすべてをゆだねます。家族のすべての重荷を受け取ってくださり、平安と喜びを与えてください。神さまのために献身する家族になるようにしてくださり、正しい生活をするようにしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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