わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書かれているとおりです。《ローマ人の手紙 九・13》
きょうのみことばには、一人の母親のお腹から生まれた、双子のことが書かれています。その母親とは、イサクの妻リベカであり、双子とはエサウとヤコブです。神さまはエサウを憎み、ヤコブは愛したと書かれています。愛するとは、何よりも先に選ぶということで、憎むとは選ばないということです。では、なぜ神さまはエサウを選ばずに、ヤコブを何よりも先に選ばれたのでしょうか。
この二人の神さまを信頼する心が、全く異なっていた事実に注目しなければなりません。エサウは神さま対して無関心でした。聖書をよく見るなら、エサウが神さまについて話をした箇所や、エサウが祈った箇所など、信仰生活に関係のある記録を見つけることはできません。エサウの生活は、敬虔な生活とはほど遠いものでした。
一方ヤコブはアブラハム、イサクに約束され、注がれた神さまの恵みと祝福と、そして契約を、何としてでも自分のものにしたいと強く願っている者でした。神さまに対して深い関心を払っていたのです。神さまの祝福を心の底から求めている人でした。聖書にはヤコブの敬虔な生活について、多くのことが書かれています。ヤコブが祈ったことについて記し、ヤコブが神さまを礼拝したことについて記し、神さまの天使とすもうを取ったことが記されています。ヤコブは実に敬虔な信仰の人であったことを知ることができます。
「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す《箴言 八・17》」と書かれています。神さまはご自分に対して積極的に関心を注ぎ、ご自分の祝福を熱心に求め、ご自分を敬う人を顧みてくださり、恵みを施してくださり、出会ってくださいます。ところが神さまに対して無関心で、神さまのみ心に従わない人は、選ばれないのです。これが神さまのヤコブに恵みを施してくださった理由です。
ですから、私たちが深く悟るべきことは、規則や法律がなくても充分立派に生きられるほどの人であったとしても、神さまに対して無関心で、神さまの祝福を求めず、神さまを敬わなければ、神さまは選ばないということです。けれども、たとえ人の目には欠点があり、誤ちが数多く見えても、絶えず悔い改め、神さまに対して深い関心を持ち、神さまの祝福を熱心に求める人は、神さまの愛と恵みを受けるのです。神さまはご自分を愛し、ご自分を敬い、ご自分に従う人と共におられます。
お祈り:生きておられる天の父なる神さま、感謝します。神さまを敬い、神さまの御心に従う私と家族になれますように。主の御国と福音に無関心な人となって、神さまに選ばれないことがないようにしてくださり、ただ主だけを見上げて生活できるようにしてください。主の約束を信じます。ヤコブの信仰が私と家族の信仰になるようにしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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