5月1日 恵みに満ちた出会い

「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」こうして彼らは祝宴を始めた。《ルカの福音書 十五・24》

きょうのみことばは、放蕩息子の話です。父の財産を分けてもらい、遠い国へ行った弟は、湯水のようにそのお金を使い果たし、無一文になりました。彼は罪を悔い改め、雇い人にしてもらうつもりで、父の元へ帰ります。父に会うと、「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません《ルカ 十五・21》」と悔い改めました。父親はしもべたちに言いました。「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。《同 十五・22~24》」

神さまは、この話の父親のように、私たちが自己中心を捨てて、いのちの源である神さまに信頼する心で立ち返る時、喜んで迎えてくださいます。そして一番良い着物である、イエス・キリストの「義の衣」を着せてくださいます。「聖霊の印」である指輪をはめてくださいます。「平安の福音」の靴を履かせてくださいます。靴はまた、生活する上でなくてはならないものです。自分たちの力だけを頼って生きていた人が、キリストの福音だけを信頼するようになるのです。父はまた肥えた小牛をほふり、祝宴を催しました。肥えた小牛は「恵み」を象徴します。神さまは悔い改める罪人に、やせ細った小牛をほふるのではなく、肥えた小牛、つまり豊かな恵みと祝福を下さるのです。息子が帰って来たことを喜び、父がしもべたちと祝宴をはったように、神さまは罪人が立ち返ることを、天使たちと共に喜んでくださいます。

信仰生活とは、「出会いの喜び」です。父と息子は出会うことができて嬉しかったのです。いつも喜びなさいとは、出会いの喜びがあるからです。「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり、楽しみがあなたの右に、とこしえにあります《詩篇 十六・11》」と書かれている通りです。誰でも父なる神さまと出会う人は喜びを得ます。父なる神さまと出会うと、人は変わります。変わることによって喜びがついて来ます。でも心がへりくだらないと、この出会いを経験することはできません。自己中心と貪欲な心、高慢とわがままを持ったままならば、感激的な出会い、恵みの出会いを経験することはありません。

人が悔い改めて、イエスさまを信じることは、父の家に戻ることです。神さまは御力をもってすべてを支配しておられます。神さまの御心の通りに生きて行くことが、喜びの道なのです。私たちがこの事をはっきりと悟り、神さまとの正しい関係を築くことを第一とする時、神さまは喜んでくださり、義の衣を着させてくださいます。指輪をはめてくださり、聖霊の印を押してくださいます。「平和の福音」のくつを履かせてくださり、恵みと祝福をくださいます。そして天の御国へ行くまで守ってくださり、顧みてくださり、導いてくださるのです。

お祈り:天の父なる神さま、感謝します。へりくだった心をもって主に立ち返ります。私と家族を受け入れてください。私と家族は自己中心を捨て、神さま中心主義を確立できるようにしてください。毎日、主に仕えるようにしてください。善き天の父なる神さま、私と家族といつも共にいてくださり、愛をもってつつんでください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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