木はそれぞれ、その実によって分かります。茨からいちじくを採ることはなく、野ばらからぶどうを摘むこともありません。《ルカの福音書 六・44》
キリスト者は、一般の常識に従って生きる者ではありません。キリストのみことばに従って生きる者です。ですから、ただ熱心に主の祝福を追い求めるだけでなく、聖であり、義である神を信じる者は、きよい生活をするべきです。主を信じない人の生活と比べて、道徳的に少しも勝っている点がないなら、その人は問題を抱えています。
パウロは、エペソのキリスト者に送った手紙で、次のように勧めの言葉を語っています。「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。《エペソ五・8》」 キリストにある者は、毎日聖霊さまを求め、聖霊さまに聞き従って生活すべきです。聖霊さまに従うならば、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という特徴が現れるのです。
心の思いが変化しないで、ただ主の祝福だけが欲しいあまり、「主よ。主よ。」と主の御名を呼び求めるような人は、真のキリスト者とは言えません。イエスさまは、実を生らせずに、葉だけを茂らせているいちじくの木を呪われました。ですから心の思いが変化し、聖霊さまに従う時に与えられる人格的特徴、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を、毎日の生活で表しましょう。外見的には熱心だけれども、聖霊さまの与えて下さる実を結ぶことのない人は、しまいには主に捨てられてしまうでしょう。
イエスさまは弟子に向かい、あなた方は世の光であり、地の塩であるとおっしゃいました。ですからイエスさまを信じる者は、この地上生涯で、どのような存在として、どのように生きるべきかを明確に悟るべきです。聖霊さまが下さる9つの人格的特長(実)を、生活の中で表し(結び)、主に栄光をお返ししながら生きるよう努力すべきです。
「木はどれでも、その実によってわかるものです。」 もしイエスさまを信じる人が、憎しみ、憂うつ、不安、いかり、貪欲、悪意、不忠実、かたくなな心、締まりのない生き方を、生活の中で表すなら(結ぶなら)、その木は必ず腐ってしまう木です。主に呪われた木です。
今、私たちの住んでいる日本は、歴史的に、社会的に、経済的に、政治的に、とても難しい状況にあります。キリストにある者はこのような状況の中で、形式的に主を信じる安楽な生き方を捨てなければなりません。先ず生活の中で、主に信頼し、主のみことばに信仰によって従う生き方を実践しなければなりません。毎日聖霊さまに「助けてください。」と叫び求めなければなりません。その時、私たちの周囲に正義と平和と愛があふれます。この国は主の祝福によって栄え、発展して行きます。
お祈り:聖なる天の父なる神さま、感謝します。私と家族は、聖く生きることができませんでした。赦して下さい。私と家族が毎日、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という人格的特徴を表して行くことができるように、聖霊さま、助けて下さい。私と家族が、世の光、地の塩として聖く、聖潔に生きることができるようにして下さい。私の口のことばと心の思いとが、主に喜ばれますように。イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン
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