6月8日 あわれみ深い者は幸いです

しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。《テモテへの手紙 第一 一・16》

人の心の中には、物差しやはかりがあります。この物差しやはかりで、自分の言葉や行動、生活のすべてを量ります。自分を量る時はとても寛大です。大目に見ます。自分以外の周りの人を量る時は、とても厳しいのです。少しでも欠点や短所、失敗や落ち度を見つけようものなら、激しく指摘し、訴え続けます。ですからイエスさまは、「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか《マタイ七・3》」と言われたのです。このように、天のお父さまから遠く離れてしまった人は、心の中にある物差しやはかりをもって、周囲の人を量り、裁いています。憐れむ思いを持たずに、裁き合っています。隣りに寄り添っている人なのに、敵になります。家庭がこわれます。殺伐(さつばつ)とした社会になって行きます。真のキリストの弟子になるためには、周囲の人を憐れむ心を持ち、お互いに言葉を交わし、理解しなければなりません。「憐れむ心」は、親と子どもの関係を見ればよく分かります。親が子どもに接する時には、いつも愛の心をもって接します。けれども、子どもが間違いを犯した時、親は厳しく叱ります。時には罰を与えます。それは、決して子どもを悪くするためではありません。見放したからでもありません。我が子の心を正すためです。愛しているからです。

天のお父さまが人をご覧になり、もし神の律法の物差しで量り、裁くならば、生き残れる人は一人もいないでしょう。しかし神さまが私たちをご覧になる時は、限りない憐れみをもってご覧になるのです。私たちは罪を犯します。正しくありません。心は汚れています。神から見捨てられて当然な者です。こんな私たちを生かすため、天のお父さまは、ひとり子イエス・キリストをこの地に遣わされました。イエスさまは、父の憐れみの心を見せてくださいました。私たちの罪と不義、汚れと呪い、絶望と死、病と痛みなどを、イエスさまはその身に負い、十字架にかかり、血のすべてを流され、死なれました。そのことによって、罪から来る報酬をすべて支払い、清算されたのです。

ですから私たちは、罪を犯したのにもかかわらず、いやしい者にもかかわらず、老若男女、貴賤貧富を問わず、イエスさまを通して、天のお父さまの御前に進み出ることができるのです。罪が赦され、救われます。天の御国を見上げながら、毎日イエスさまと一緒に生活をすることができるのです。私たちは皆、主の憐れみを頂いている者です。主の憐れみを受けたのですから、その憐れみの優しい心をもって、隣人を愛し、受け入れ、赦さなければなりません。隣人のために祈らなければなりません。このような憐みの心のある家庭は、幸せです。憐れみのある教会は、一致しています。憐れみの心を持った国は一つになり、他の国々と平和な関係を築くことができます。

今日、世界に必要なものは、この憐みの心です。天のお父さまから、限りない憐れみを受けたことを心の深みで知り、憐れみの心を他の人に現そうと努める人が、幸いな人です。そのような人だけが、神さまから憐れみを受け、隣人からも憐れみを受けるのです。

お祈り:私たちを憐れんでくださる天のお父さま、感謝します。互いに、自分の心の中にある物差しやはかりで量り、裁き、訴え続け、罪に定めて来たことを赦してください。これからは憐れみの心と愛をもって、家族と隣人に接するようことができるように助けてください。いつも、私はイエスさまから憐れみを頂いている者だということを思い、イエスさまに頼る者としてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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