感謝のいけにえを献げる者は、わたしをあがめる。自分の道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せる。 《詩篇 五十・23》
天のお父さまは、私たち神の子の賛美を喜んで受け取ってくださいます。一方、恨みごとや不平は、お父さまにとって「目にしみる煙」のようなものです。天のお父さまの御心を悲しませます。また私たちの心を鈍くし、私たちの心から喜びと平安を奪います。ですから私たちは、家庭で、学校で、今いる所で、いつも主を賛美しなければなりません。幸せの時でも、救い主、造り主、赦し主、いやし主、復活の主、恵みの主を賛美しなければなりません。苦しみの時でも、賛美しなければなりません。
イスラエルの民は神さまを悲しませ続け、最後には捨てられてしまいました。イスラエルの民は、神さまの偉大な御力によって、紅海を渡りました。荒野で、天のお父さまが与えてくださったマナを毎日食べました。岩から湧き出た水で、のどを潤しました。このように、主の偉大な勝利と栄光の奇跡によって荒野を通り抜けたのに、イスラエルの民は、神さまと指導者モーセを恨みました。不平を言いました。神さまの偉大な御力を信じ、頼らなかったのです。「エジプトの方が良かった。神々によって守られ、祝福されていたエジプトの方が良かった。イスラエルの神さまは、私たちを荒野で滅ぼそうとしている」と言ったのです。当然ですが、その度に神さまは激しく怒りました。最終的に、神さまが本当に激しく怒られるような不信仰の罪を、イスラエルの民は犯してしまいました。12人の偵察隊がカナンの地を調べ、そして帰って来ました。モーセは12人を呼び、報告会を開きました。ヨシュアとカレブ以外の10人は「カナンの地は良い地ですが、私たちには征服することなどできないでしょう。巨人が住んでいて、私たちを滅ぼし尽くすでしょう」と否定的に報告しました。するとイスラエルの民は、泣き叫びながら神さまとモーセを恨みました。「この荒野で死ぬよりは、エジプトに帰って死んだほうがましだ」と、叫び出したのです。
神さまは激しく怒りました。「わたしはイスラエルの民を今、滅ぼす」とモーセに言われました。モーセはそのみことばを聞くと、いのちをかけて主に赦しを求める祈りをささげました。とりなしました。その結果、主はイスラエルの民を赦してくださいました。けれども、神さまの偉大な御力を信じ、頼ろうとしない、否定的な報告をした10人の命をその場で取り去りました。その後、天のお父さまは、イスラエルの民を荒野に連れ戻し、40年間荒野をさまよわせ、ヨシュアとカレブ以外の、エジプト脱出の経験をしたにもかかわらず不信仰を表明した世代の者を、荒野で滅ぼしてしまいました。40年後、主は彼らの子や孫だけを乳と蜜の流れるカナンの地に導き入れたのです。
このように、主を信じないで、主の約束を信じないで、主の偉大な力に頼らないで、恨みごとや不平を言うことは、神さまを悲しませ、主を怒らせます。なぜならば、恨みごとや不平は、不信仰という大きな罪だからです。ですから私たちは、イエスさまを信じながら毎日生活する中で、聖霊さまを悲しませてはなりません。聖霊さまを恨んではなりません。恨むのは簡単です。恨みごとや不平を言う「ロ」と「舌」には、自分を殺す「毒」が満ちています。恨みごとや不平を告白するなら、その「毒」が私たちの心と身体にまん延します。聖書は確かに言います。「感謝のいけにえを献げる者は、わたしをあがめる。自分の道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せる。」
感謝と賛美の中に、主は住まわれます。感謝と賛美のことばの上に、主は王座を設けられ、そこに座してくださいます。苦しみや困難なことがある時、苦しければ苦しい時ほど、主に感謝をささげ、賛美をささげなければなりません。
お祈り:私と家族を救い出し、恵みを与えてくださる天のお父さま、感謝します。私と家族は、恨みごとや不平をつぶやいた時がありました。赦してください。これからいつも感謝し、賛美する私と家族となれるようにしてください。苦しい時ほど賛美するようにしてくださり、隣人に救い主イエスさまを伝えられるようにしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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