家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られたのは神です。《ヘブル人への手紙 三・4》
今、ほとんどの人が、この世界で満足することだけを求めて、あくせくしています。永遠のことについては、全く考えません。それはちょうど、断崖絶壁の上に立っていることに気が付かず、手にはゲームやおもちゃ、お菓子やペットボトルを一杯持って喜んでいる、わからずやの子どものようです。この崖から落ちれば、死ぬのです。いつ足を踏みはずすか分かりません。何も見ていません。何も感じていません。何も考えていないのです。
永遠のことについて全く考えない人は、自分が火と硫黄(いおう)の燃える池が下にある断崖絶壁の上に立っていることが分からないのです。崖の上にいるのにもかかわらず、少しもこわがらないで、この世界で満足することだけを追い求めて、あちこち飛び回り、喜んでいるのです。落ちたら、永遠に死ぬのです。そしていつ足を踏みはずすか、いつ死ぬのか、いつこの地上生涯を閉じるのか分からないのです。これが今、「神さまはいない」と叫ぶ人々の姿です。空に輝く太陽と月、星が、神さまが生きておられることを証明しています。広大な海が、砂浜に波打つ様子が、神さまの働きを証明しています。大自然のすべてが、創造主である神さまを賛美しています。「家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られたのは神です」と、きょうのみことばに書かれている通りです。
家は偶然に建つことはありません。ましてや、この巨大な宇宙がどうして偶然に生まれるわけがありましょうか。砂の上をくちばしでつついて、自己満足しているダチョウのような無神論者たちは、その愚かな考えに従って「神による裁きなどない」と叫んでいます。彼らはこの世のことに夢中です。けれども、「ご覧ください。彼らの唇には多くの剣があり、その口で放言しているのです。『だれが聞くものか』と。しかし【主】よ。あなたは、彼らを笑い、すべての国々を嘲(あざけ)られます《詩篇 五十九・7~8》」と、聖書に書かれている通りです。そのような愚かな無神論者たちは、必ず神さまの厳しい裁きを受けることになるのです。
また、ある人は「熱心に修業して、自分を立派にすれば、救われる。道徳的に立派に生きれば、神さまの裁きを避けることができる。救われる」と言っています。果たして、人間が熱心に修業して、自分を立派にすれば、神さまに受け入れられるのでしょうか。主はおっしゃいます。「私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎は風のように私たちを吹き上げます。《イザヤ 六十四・6》」
人間が熱心に修業して、自分を立派にしても、どんなに自分は正しいと自慢しても、それはまるで、神さまのみ前では「不潔な着物」です。「枯れた木の葉」です。このように私たち人間の行いは、神さまの目には取るに足りないものです。ですから人間がどんなに修業して、自分を立派にし、道徳的に立派に生きても、「神の裁きの風に吹かれゆくしかない存在」なのです。
ですから、私たちはいつも、主を私と家族の主人としなければなりません。「私の人生の創造主です。救い主です」とお認めしなければなりません。歓迎しなければなりません。
お祈り:私と家族の主人であられる天のお父さま、感謝します。私と家族が主を信頼せず、主に従えず、世に向かって行ったことを赦してください。世に打ち勝つ力と知恵を、毎日与えてください。いつも感謝する私と家族になれるようにしてください。生活の中で実を結ぶようにしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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