あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。《ヨハネの福音書 十四・1~2》
人は、霊・魂・肉体を持つ存在です。主は、そのように私たちを造ってくださいました。人の本体は、霊と魂です。肉体はちょうど着物のような物です。考え、決定する意思は、霊・魂が行っています。本体である霊と魂が、肉体を着物(衣)のように着ている存在です。
人がこの肉体の衣を脱ぐ日、永遠の神の栄光の中に入れられるのか、永遠の刑罰の中に入れられるのかが決まります。そしてこれを決定するのが、地上で生きている間、イエス・キリストに対し、どのような態度を取ったのかということによるのです。イエス・キリストを救い主として迎え入れた人は、主イエスさまと共に、永遠に、栄光の神と共に生きます。迎え入れない人は、火と硫黄(いおう)が燃える池で永遠に刑罰を受け、苦しむことになります。
ですから、イエス・キリストのいのちを頂き、新しく生まれたキリスト者は、何と祝福された存在でしょう!けれどもある人は、清い生活をすれば、道徳的に立派な生活をすれば、永遠に生きられると思っています。これは大きな間違いです。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず《ローマ 三・23》」と、聖書は言います。
ですから、人間はだれでも自分の意思で、イエス・キリストと、イエス・キリストの福音に対して、はっきりと決定を下さなければなりません。イエスさまは「信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます《マルコ 十六・16》」と言われました。
イエス・キリストを一度信じたからと言って、それでイエスさまに従う歩みが完成するわけではありません。イエスさまを救い主と迎え入れた人は、毎日毎日、信じたことを実際に行う生活をしなければなりません。イエスさまは「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます《マタイ 六・33》」とおっしゃいます。イエス・キリストのいのちを頂き、新しく生まれたキリスト者として、どんな状況に置かれても、私たちは神の国とその義とをまず第一に求める生活しなければなりません。そのためには私たち自身が、十字架の中で変えられ続けなければなりません。私たちはまず、イエス・キリストの十字架に、この世と調子を合わせてしまう自分、自分勝手な自分、自己中心的な自分を釘付け、イエス中心の新しい存在として、新しく生まれなければなりません。
また、私たちは神の義を求めなければなりません。私たちは、天のお父さまが願っておられる「義の生活」をしなければなりません。「義の生活」ができているかどうかは、モーセの十戒に照らし合わせてみれば分かります。またイエスさまが私たちに下さった新しい戒め、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい《ヨハネ 十三・34》」というイエスさまの戒めを、生活の中で徹底して実践しなければなりません。そして自分の言葉、自分の行いにおいて、聖霊さまのきよさを現わさなければなりません。これはキリスト者が当然行うべき生活です。
キリスト者は、この世の人々が体験することのできない神の恵みの世界に生きています。主は、私たちの霊・魂が恵まれ、すべてのことで恵まれ、健やかになることを願っておられます。でも、キリスト者だからと言って、無条件で祝福を受けられるわけではありません。自分を頼ることを止め、主イエスさまを信頼し、みことばを信頼し、神の国とその義を求める人が、このような天国の恵みと祝福を受けるのです。
お祈り:私と家族をいつも守ってくださる天のお父さま、感謝します。私と家族が貪欲に従って生きていたことがありました。赦してください。これからは永遠の天の御国を目指し、天の御国にすべての希望を置いて、この地上で神の国とその義を求めることができるように、知恵と力をください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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