しかし、私は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美します。《詩篇 七十一・14》
私たちがささげる賛美を主は王座とし、その賛美の上に座し、その賛美の中に住まわれます。キリスト者の賛美は、主をお迎えする王座となります。ですから、いつも賛美しなければなりません。天のお父さまは、私たちの賛美をお受けになるとき、栄光をお受けになります。その時、天のお父さまは、喜びをもって私たちの願いを聞いてくださいます。
子どもから愛され、尊敬されている親は、自分の子どもに必要なすべてのものを与えます。自分の子どもに愛と恵みを与えます。それと同じように、天のお父さまも、子である私たちが主を愛し、賛美をささげると、大いに栄光をお受けになり、私たちを恵みの御手をもって包んでくださいます。
賛美は、私たちにとって信仰の力になります。信仰の力を失った時、賛美すれば信仰が強くなります。悪魔は私たちの賛美を恐れています。ですから私たちは、天のお父さまに栄光をささげる賛美、主に感謝する賛美、主が造られた自然についての賛美、イエス・キリストの血潮についての賛美、キリストの福音についての賛美、主のみことばについての賛美をささげなければなりません。特にキリスト者が苦しみや困難を体験する時、その苦しみや困難の向こうにある主の恵みを思い、苦しみや困難をくださった神さまのお考えや御心を、賛美しなければなりません。
一方、不平や不満、つぶやきは悪魔を賛美することになります。悪魔は不平や不満、つぶやきを通して私たちからいのちや喜び、愛や平安を盗み、私たちを殺し、滅ぼそうとします。ですから、愛する皆さん。不平や不満、つぶやいている場所の雰囲気は、墓場の募囲気だと思ってください。しかし賛美の雰囲気は、天国の雰囲気です。パウロとシラスが賛美する時、絶望という扉を象徴している扉が開きました。ユダ王国は、戦力では敵国にまったくかなわない状況にありましたが、ヨシャパテ王と民が賛美をすると、敵の中に同志討ちが起き、勝利を収めました。イエスさまも十字架の苦難を前にして、賛美しながらオリーブの山に上られ、祈りにより十字架の上で勝利されました。
人々が不平をつぶやこうと思えば、いくらでも不平や不満は見つけることができます。けれども、感謝すべきことを見つけ出せば、感謝すべきことが本当に沢山あります。ですから、私たちは決心して、感謝すべきことを見つけ出し、感謝しなければなりません。主の御前で感謝し、自分の隣人に感謝しなければなりません。心の中に感謝と賛美が満ちあふれるとき、暗やみは光に、絶望は希望に、ふさぎこんでいた心は活動的になり、信仰、希望、愛で満たされます。
このようにして私たちの心が肯定的で、積極的で、創造的で、生産的な態度になる時、私たちは正常な判断を下せるようになります。聖霊さまの導きを受けやすくなります。霊が良くなり、すべての点においても恵まれ、健康な人生を生きることができるようになるのです。「感謝のいけにえを献げる者は、わたしをあがめる。自分の道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せる《詩篇 五十・23》」と書かれている通りです。主は私たちの感謝と賛美を受けるにふさわしいお方です。感謝と賛美をささげるとき、悪魔との戦いに勝利できます。主は私たちを祝福してくださり、希望をくださるお方です。
お祈り:私たちを贖ってくださり、導いてくださる天のお父さま、感謝します。私と家族が天のお父さまを恨み、不平や不満をつぶやく時がありました。赦してください。これからはいつも感謝、賛美する私と家族になれるようにしてください。苦しく、難しいことが起きる時も、感謝し、賛美する私と家族になれるように働いてください。家庭から賛美が溢れ出て、家族が互いに感謝するようにしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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