しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。《ガラテヤ人への手紙 五・22~23》
神さまの霊、聖霊さまが来られると、私たちの生活が変わります。「私はイエスさまを信じています」と言っても、牧師であろうと、クリスチャンであろうと、相変わらずきたないことば、悪いことばを平気で使い、怒り、悪口を言っているならば、聖霊さまの働きを体験したとは言えないのです。真のキリスト者とは程遠い状態です。
「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです《ローマ 八・1~2》」と、聖書に書かれています。聖霊さまが来られると、罪と死の原理から私たちを解放してくださいます。ですから明日は今日より、来月は今月より、来年は今年より、もっときよめられた信仰生活を送ることができるのです。キリスト者が罪の衣を脱ぎ捨てずに、相変わらずその罪の衣を着たまま、罪にまみれているような状態ならば、聖霊さまの働きがその人の心の内に起きていないことは明らかです。
聖霊さまは私たちに働きかけておられるのに、なぜ私たちは変わらないのでしょうか。「あなたがたは彼らを実によって見分けることになります《マタイ 七・16》」と書かれています。実を結んでいない人は、心の思いが変化していないのです。聖霊さまによって、心の思いを変えて頂く必要があります。そして、キリストの弟子にふさわしい実を結ぶ者へと変えてくださいと、祈り求める必要があります。心の思いを変えて頂き、実を結ぶ者となるためには、代価を払う必要があります。神さまの栄光をあらわすため、自分を捨て、主を選び取り、みことばを選び取る努力が必要なのです。神さまの栄光を辱めるようなことを、してはなりません。聖霊さまの働きには、必ず平和(平安)ときよさが伴います。これはとても大事なことです。一度にすべてが変えられるわけではありません。年月を経れば経るほど、怒りやすい人が柔和で温厚な人になります。聖霊さまの実は、何でしょう。きょうのみことばに書かれている通り、「誠実、柔和」です。イエスさまのものとなった人々は、肉体をその情欲や欲望と共に十字架につけてしまいましたから、聖霊さまによって、きよさと平和(平安)の中を生きることができるのです。
聖霊さまが私たちの中にいてくださるならば、その人は肉の人ではなく、霊の人です。生まれながらの性質の者ではなく、キリストに似た者です。聖霊さまは偉大な変化の力を持っておられます。この聖霊さまの力に私たち自身をゆだねるなら、聖霊さまは私たちを、イエスさまの姿に変え続けてくださいます。栄光から栄光へと主と同じ姿に変えてくださるのです。変わらない人は、世と世の生き方に流されてしまうでしょう。五旬節(ペンテコステの日)に聖霊さまの満たしを受け、変えられ、主の力に満たされ、世界を福音で満たし、生涯の最後を殉教で終えた弟子たちのことを考えてみましょう。今、私たちも聖霊さまに満たされ、主の偉大な力に満たされることができるのです。ただ願い、祈り求めれば良いのです。きよさと平和(平安)を持つキリスト者に変えて頂きましょう。
お祈り:愛と公義の天のお父さま、感謝します。私と家族が主を信じると言いながら、実を結べないで生きて来たことがありました。赦してください。これからは聖霊さまの実を結ぶ私と家族になれるようにしてください。人間の力では限界がありますから、聖霊さま、私と家族を支えてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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