6月24日 苦しみに会ったことは

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。それにより私は、あなたのおきてを学びました。《詩篇 百十九・71》

最初の人、アダムとエバが父なる神さまに反逆した時、彼らは人間中心主義を主張しました。これは現代のヒューマニズムの源流です。人は本来、天の父なる神さまに仕えながら生きるように、造られました。

聖書は、人を「家」と表現しています。「家」には主人がいます。また聖書は、人を「器」としても表現しています。「器」は、何かを入れるための物です。人は「家」であり、「器」です。持ち主ではありません。持ち主は、ただイエスさまだけです。その「家」や「器」を用い、その中に住み、その中を満たすのも、イエスさまだけです。

アダムとエバは、天の父なる神さまが主人となることを拒み、自分たちが主人となり、人間中心主義に生きることを宣言したのです。その後、アダムとエバの子孫である人間は、今日まで、主に逆らい続ける生活をしています。

このような人が、主の福音のために用いられるには、先ず人間中心主義が砕かれる必要があります。そのために、苦しみや問題の中を通ります。その時その人は、人間の本当の姿を悟ることになります。誰でも、主の御前で受ける苦しみや問題が大きければ大きいほど、自分がどんなに弱い存在であり、限界のある存在であり、何もできない存在であるかを、悟ります。

福音を聞く時、多くの人々が言います。「この世の中で自分の能力に頼って生き、そして死ねば、すべてが終わる。天国なんか、どこにあるのか? どうして私に罪の赦しと救いが必要なのか? ぜいたくな生活をして、死にたい」と言って、福音を拒みます。そうしているうちに、苦しみに会い、人間の限界と罪の性質を覚えると、「神さま助けてください」と言って神さまに降参し、イエス・キリストを私の救い主ですと告白し、信仰を持つようになるのです。

人は、神さまの御前で、そう簡単に砕かれません。危険な目にあい、苦しみにあって始めて、自我が砕かれ、神さまを求め、神さまを頼るようになるのです。生まれながらの自分、人間中心主義の自分が砕かれる時、はじめて、内なる霊の人が成長することができます。このために主は、人間を砕かれるのです。特に、福音のために、主が用いようとされる人は、大きく砕かれます。

愛する皆さん。あなたが、イエスさまを信じるようになったきっかけを、考えて見てください。大部分の人が、苦しみや問題を通して砕かれ、悔い改め、イエスさまを救い主と迎え入れたことでしょう。そうです、人は苦難に会うと、人間中心主義を捨て、神中心の生活を回復するようになります。ですから詩篇の記者は、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。それにより私は、あなたのおきてを学びました」と告白したのです。

毎日の生活の中で、私たちが用いている器にひびが入ったり、壊れたりしたら、ゴミとして捨てます。けれども神の国では、砕かれた人だけが主に豊かに用いられるのです。主が、ある人を祝福しよう、尊く用いようと心に決められると、必ずその人を砕かれます。その人には、それが悲惨な苦しみや問題のように思われます。けれども、その人は、その苦しみや問題を通して、神の国の働き人、収穫をとり入れる働き人とされるのです。

お祈り:私たち家族を愛してくださり、いつも共にいてくださる天のお父さま、感謝します。逆境を通して神さまの御心を悟らせてくださり感謝致します。主に従うことを教えてくださり、主の御心を賛美します。私と家族が主の御心を知り、どんな苦しみに会っても絶望しないで力強く生き、隣人に愛を実践する者とならせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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