私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。《コリント人への手紙 第二 四・18》
イエスさまに触れられ、救われたなら、そしてイエスさまを心の深みで知れば、人はだれであっても、生きる目的と意味が変わります。イエスさまを信じる前は、お金、高価な品物、そして有名になることや人の評判を求めて生活していました。けれども、イエスさまを信じてからは、ただ主だけを礼拝するために生きるのです。お金、名誉や評判、権力や地位は、霧のように消えてゆきます。目先の利益を追い求めて、もがく人に向って聖書は言います。「明日のことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないのだから。《箴言 二十七・1》」、「あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。《ヤコブ 四・14》」
この世の中には、永遠のものは何もありません。人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようです。草はしおれ、花は散り、朽(く)ちます。悪魔は私たちに向い、「この世界にあるものを自分の手にするために、手段と方法を問わず、全力を注ぎなさい」と誘惑しています。主を信じる前、私たちはこの悪魔のことばに耳を傾けました。しかし、今はもうだまされてはなりません。私たちはただ、永遠の神、この宇宙において絶対の主権を持っておられる神さまを礼拝するために生きているのです。
人は、何のために生きているのでしょうか。お金ですか、高価な品物ですか、そして人間の名誉や評判ですか、権力ですか、心や肉体を楽しませることですか。人の心臓の鼓動が止まり、あれほど強く握りしめていたものを力なく手離す時、私たちを待っているのは神さまの審判です。人の本体である霊と魂が肉体という着物を離れる日、天国か地獄か、二つのうち、一つに入るように定められています。そして、イエスさま間を救い主と信じなかった者に対して、聖書ははっきりと警告しています。「しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。《黙示録 二十一・8》」
イエスさまを信じている私たちは、草のように朽(く)ちていくもののために、生きるべきではありません。天の御国の栄光のために生きるよう召されています。イエスさまはおっしゃいます。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。《ヨハネ 六・27》」
私たちは地位や名誉、人々の評判や良い立場を得ても、神さまだけを礼拝するために、努力しなければなりません。神さまの御心を行うために、生きるのです。キリストの福音を伝えるため生きるのです。これだけが永遠に価値あることです。主を礼拝すること、御心を行うこと、福音を伝えることに積極的に取り組みましょう。そうする時、神さまは私たちの生活と、来たるべき天の御国の生活を、価値あるものにしてくださり、祝福してくださいます。
お祈り:私と家族を守り、保護してくださる天のお父さま、感謝します。私と家族が、この世のものを求めるために生きないで、神さまの栄光のために生きるようにしてください。この世のすべては、草の花のように消えてしまうものです。主よ、私と家族が永遠の希望を持つようにしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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