わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。《ヨハネの福音書 十五・2》
きょうのみことばで、イエスさまはおっしゃっています。実を結ばない枝はすべて、父がそれを切り取り、捨てるが、実を結ぶ枝は、もっと実を結ぶように剪定し、整える、と。
キリストのものである私たちが、実を結ぶために努力し、祈れば、神さまは喜んでくださり、多くの実を結ぶことができるように、聖霊さまが働いてくださいます。これとは反対に、実を結ぼうと信仰による努力や誠意を神さまに見せない者を、神さまは取り除いてしまいます。
イエスさまは実際に、実をつけていないいちじくの木を呪いました。イエスさまは、オリーブ山を上っている時、葉の茂ったいちじくの木が、葉のほかには何もないことに気づかれると、おっしゃいました。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。《マルコ 十一・14》」 その次の日、イエスさまと弟子たちはそこを通りました。ペテロが見ると、いちじくの木が根まで枯れているではありませんか。ペテロはイエスさまに言いました。「先生、ご覧ください。あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています。《同 十一・21》」
今日も、イエスさまは実を結ばない個人、教会、国を呪われます。実を結ばない人とは、どういう人でしょうか。
実を結ばない人は、第一に、新しく生まれていない人です。ただ教会に形式的に来ているだけの人です。このような人は、神さまが生きておられることに対する確信がありません。礼拝をささげても、形式的に、表面的に、ささげるだけです。そして、イエスさまを知らない世の人々と、同じような言葉を使います。行動も世の人々と同じです。このような人が、実を結ばない人です。もちろん神さまの恵みを受けることはできません。
実を結ばない人は第二に、行いのない人です。何十年も教会に通っていても、祈りもせず、この世で、光と塩の働きをしないならば、そのような人は、実を結ばない人です。「からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです《ヤコブ 二・26》」と聖書に書かれている通りです。
神さまは、このような信仰は望まれません。神さまは義なる神です。罪は裁かれます。祝福もくださいますが、裁きも行います。ですから、実を結ぶため、信仰によって努力する必要があります。実を結ばない人を、聖霊さまは悲しんでおられます。ですから、聖霊さまをお頼りし、豊かな実を結び、神さまの栄光を表す者とならせて頂きましょう。
お祈り:豊かな実をくださる天のお父さま、感謝します。私と家族は、信仰の実を結んでいません。赦してください。これからは、実を結ぶ私と家族になれるようにしてください。私と家族が、実を結べるように、聖霊さま、助けてください。祈りとみことばで武装して、この世と高慢の罪に勝利できる私と家族になれるようにしてください。家庭に愛が満ちあふれるようにしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


コメント