7月26日 手がきよらかな者

だれが、【主】の山に登り得るのか。だれが、聖なる御前に立てるのか。手がきよく、心の澄んだ人、そのたましいをむなしいことに向けず、偽りの誓いをしない人。《詩篇 二十四・3~4》

手のきよらかな者が、主の聖なる山に登り、聖(きよ)い神さまの御前に立ち、義を得る祝福を受ける、ときょうのみことばに書かれています。

聖書の中で、「手」が象徴的に語られている場合、「力」を意味します。「手がきよい人」とは、信仰をもって神さまから力を頂いている人です。手が罪にまみれているなら、主から力を頂くことはできませんし、祈りに答えて頂くこともできません。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます《Ⅰヨハネ 一・9」と約束されている通り、聖霊さまが教えてくださる罪を主の御前に告白しましょう。罪は完全に洗い流されます。「義人の祈りは働くと、大きな力があります。《ヤコブ 五・16》」ですから私たちは、罪を告白し、罪と悪と不義を心から洗い落として頂きましょう。

罪の問題を解決してくださるために、天のお父さまは、ひとり子イエス・キリストをこの地に送ってくださいました。イエスさまは、生まれた時から罪がなく、また一度も罪を犯したことがありませんでした。ですから、私たちの身代わりとなって、私たちのすべての罪を負うことができる人だったのです。イエスさまは罪となりました。私たちが受けなければならない神の裁きと罰を、罪となったイエスさまが、その身にすべて受けてくださいました。神は、私たちと私たちの罪に対する裁きと罰を、ただ一度だけ、完全に、イエスさまの上に降しました。私たちの過去、現在、未来の罪はみな、イエスさまは十字架の死によって清算してくださいました。私たちは罪を持って生まれ、罪を犯してしまう者で、神から見捨てられて当然の者です。にもかかわらず、どんな人でも、肌の色、老若男女、貧富貴賎を問わず、イエスさまの十字架の贖いを信頼する者は、罪が赦され、義とされるのです。

今の時代、世界中の国々で、正な方法や、卑怯(ひきょう)で醜くきたない方法や、浅ましい方法で、地位や名誉や権力や財産を得ている人が沢山います。名誉や富を得さえすれば、それで幸せに暮らせると思っていますが、そんなことがあるはずがありません。人の寿命は70年、健やかであれば80年です。地上生涯を終えると、人は誰でも草のようにしおれ、朝のつゆのように消えます。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている《ヘブル 九・27》」と書かれている通り、義であり、聖なる神の御前に人は立ち、裁きを受けます。イエスさまを信じ、心にお迎えした人は、キリストの裁きの座の御前に立ち、報いを受けるための裁きを受けます。

私たちの手が罪にまみれ、不正を行っているなら、決して神さまの恵みと祝福を受け、また隣人にそれを流すことはできません。今、主の御前に罪を告白し、イエスさまの血潮で心を洗って頂きましょう。

お祈り:私と家族を、愛をもって守り、保護してくださる天のお父さま、感謝します。私は罪人です。イエスさま、私のすべての罪を赦してくださり、新しくしてくださったことを感謝致します。でも、毎日の生活で、罪にまみれた手となっています。今、私の手がきよくされることを願います。恵みにより、信仰によって神さまから力を頂き、神さまに栄光をおささげし、世の光、地の塩となれるようにしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

7月25日へ   7月27日へ   7月の目次へ    毎朝のマナの目次へ

コメント