こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」《マルコの福音書 五・23》
イエスさまと弟子たちが、ガリラヤ湖の向こう岸から、こちら側に帰って来ると、会堂管理者のヤイロがやって来て、イエスさまの足もとにひれ伏し、懇願した祈りが、きょうのみことばです。
当時の会堂管理者は、ユダヤ人の社会ではとても尊敬される指導者でした。そしてユダヤ人指導者たちは、イエス・キリストを悪霊につかれている偽預言者であると判断を下し、警戒していました。それにもかかわらず、会堂管理者のヤイロは、イエスさまの御前に進み出て、自分の娘を直してくださるように願いました。ヤイロの娘は死にかけていて、とても苦しんでいました。そのような時、父親のヤイロは、イエスさまが人々から悪霊を追い出し、病人をいやしておられること聞いたのです。ヤイロは、娘を直して頂きたいという一心で、ユダヤ人の指導者たちの目も気にせずに、イエス・キリストの御前に進み出て、イエスさまの足もとにひれ伏し、願いました。ヤイロは、ただ願っただけでなく、「懇願した」のです。ひたすら願い求めたのです。
ヤイロのこの姿勢から、次のことを知ることができます。神さまの御心を知ることはとても重要です。神さまから信仰を頂くこともとても重要です。イエスさまに奇跡を起こして頂くために、「懇願する祈り」もとても大切なのです。神さまと私たちの間には、大きくて深い谷川のようなものがあります。そこに橋をかけなければなりません。それは信仰という橋です。この信仰の橋は、「懇願する祈り」によってかけることができます。祈らないで、偶然に神さまの応答を受ける人は一人もいません。主が善い約束を下さっても、その約束を自分のものとして体験するためには、信仰が生きて働く必要があります。信仰は、どのように生きて働くのでしょうか。絶えずささげる祈り、ねばり強くささげる祈り、懇願する祈りを通して、生きて働くのです。
会堂管理者の懇願する祈りは、私たちの想像を超えています。彼は知人、友人たちの前で、たくさんのユダヤ人の前で、自分の体面など考えないで、イエスさまの足もとにひれ伏し、必死に祈りました。この祈りが、イエスさまとの間の橋となりました。イエスさまはこの願いを聞いてくださり、彼の娘を直してくださいました。
天の御国は、信仰によって私たちのものとなります。主の約束のみことばを聞き、祈ること、これは私たちの信仰生活に絶対に必要なものです。多くの人々が教会に行き、みことばを読み、メッセージを聞きますが、祈りをささげないので、個人的に信仰が弱く、主の偉大な働きを体験できません。主の御心に従って祈れば、神さまからの答えを体験します。今日、多くの人々が問題の解決を体験しないで、苦しみの中にいる理由は、約束のみことばは知っていても、祈らないからです。
ですから、いつもこの会堂管理者のように、イエスさまの御前でひざまずき、祈りましょう。祈る時も、主の御心に従って、約束のみことばを土台とし、懇願して祈りましょう。その時、死んでしまったような幸せと喜び、平和と希望は復活します。幸せと喜び、平和と希望が心の中に満ちます。
お祈り:私と家族と、いつも共にいてくださる天のお父さま、感謝します。私と家族は祈りをなまけていました。赦してください。これからは、私と家族が主の御心に従って、ヤイロのように懇願して祈ります。毎日の生活の中で出会うすべての「死」に打ち勝ち、力ある生活をするように働いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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