8月3日 主に従いましょう!

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。《ピリピ人への手紙 二・6~8》

従順は、どれだけイエスさまを信頼しているのかを測ることのできる、物差しのようなものです。主に従わない人は、神さまが与えてくださる特別な恵みを得ることができません。キリスト者は、神さまのおっしゃる通りに生きる者です。神さまが「行きなさい」とおっしゃるなら、行きます。たとえその場所がアコル(悲しみ)の谷であっても、行くのです。神さまが「ささげなさい」とおっしゃれば、それが値打ちの高いとか低いとかを問わず、ささげるのです。従順ではない人は、神さまの特別な好意と愛を経験することができないのです。

イエスさまも、従順を通して人類を救われ、栄光をお受けになりました。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです《ピリピ 二・6~11》」と書かれている通りです。神の御子であられるイエスさまも従順を通して、最も偉大な栄光をお受けになりました。イエスさまは、十字架の苦難を前にして非常に悩まれました。イエスさまはおっしゃいました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。《マタイ 二十六・38》」 けれども、イエスさまの祈りの結論は「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください《同 二十六・39》」でした。この絶対的な従順を示したイエスさまにより、信じる人は罪と悪から救われているのです。

従順には、「自我の死」という犠牲が伴います。けれども、「自我の死」という犠牲の後には、復活があります。神さまは、従順な人を愛され、豊かな祝福を与えてくださいます。ですから、目先の利益を得ようと、神さまの御心に逆らう人、人間の利益を追い求める人は、愚か者です。私たちは未来を目指して、「神さま、どのような苦難があっても、あなた様の御心の通りに生きます」と告白して、そのまま行う者となりましょう。このような犠牲が伴う従順は、神さまから特別な祝福を豊かに頂くことができます。そして神さまに栄光をささげることができるのです。そのような者となれるように祈りましょう。

お祈り:私と家族を守ってくださる天のお父さま、感謝します。私は神さまの御前で不従順でした。不信仰でした。赦してください。これからは、みことばにいつも従い、神さまの御心に従って生きる私と家族になれるようにしてください。環境にどのような苦しみがあっても、主の御心を実践する私と家族になれるようにしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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