そのささげ物が牛の全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。その人は自分が【主】の前に受け入れられるように、それを会見の天幕の入り口に連れて行き、その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。《レビ記 一・3~4》
旧約聖書の《レビ記》には、主なる神さまにささげる「5つのいけにえ」のことが書かれています。それは、「全焼のいけにえ」、「穀物のささげ物」、「和解のいけにえ」、「罪のためのいけにえ」、「罪過のためのいけにえ」です。これらのささげ物、いけにえは、イスラエルの民が毎日生活する上で、とても重要なものでした。
イエスさまが来られるまで、どの時代の人々にも、どの地域に住んでいる人々にも、最も重要なことは、罪を心の中に宿している人が、どのようにして聖なる神さま、義なる神さまの御前に進み出ることができるのかということです。神さまは、《レビ記》で、この問題の答えを与えてくださいました。つまり、神さまに受け入れられる完全ないけにえをささげることと、神さまのためにだけ生きることということです。
神さまにささげるいけにえの意味を学び、今の私たちが毎日生活する上で、どのようにして神さまの御前に進み出たら良いのか、そのことについて考えてみましょう。
《レビ記 一章》には、「全焼のいけにえ」のことが書かれています。「全焼のいけにえ」は、もともと「上げられる」という意味があります。神さまに、完全に、自分自身を献げるということです。このいけにえは、傷もしみもないご自分を天のお父さまに献げられた、イエス・キリストを現しています。イエスさまは、罪人に代わって、ご自分がいけにえとなって、神さまにご自身をささげました。これは献身のいけにえでした。「全焼のいけにえ」は、五つのいけにえの中で最初にささげるように命じられていますが、その理由は、私たちが自分を完全に神さまにささげられるまでは、神さまとの生きた交わりを持つことができないからです。
この「全焼のいけにえ:献身のためのいけにえ」には、牛、やぎ、鳩が用いられました。これらには一つの共通点があります。柔順な動物であるということです。柔順な動物をいけにえとして選ぶのには、深い意味があります。死にまで、実に十字架の死にまで従がわれた「キリスト」を現しているのです。
祭壇に「全焼のいけにえ」をささげる前に、まずそのいけにえの血を注ぎ出さなければなりませんでした。神さまにいけにえをささげるためには、そのいけにえをささげる者が、まず罪を赦して頂かなければならないからです。血を流すことがなければ罪の赦しはないからです。この血はもちろん「キリストの血」を象徴しています。ですから、「全焼のいけにえ」の意味は、自分自身のすべてを、完全に神さまの御前にささげることを現します。
では、今の私たちが神さまにささげなければならない「全焼のいけにえ」とは、何でしょうか。キリストの功績(いさおし)に頼って、イエス・キリストを見習い、毎日の生活の中で、思いと心をきよくして、神さまの御心に従う生活をすることが、主にささげる「全焼のいけにえ」なのです。私たち自身を神さまに完全にささげるとき、神さまの御手が私たちの生活すべてに及ぶようになります。
お祈り:私と家族を愛してくださる天のお父さま、感謝します。自分自身を神さまにささげる、聖なる生きたいけにえとなることを私は願います。イエス・キリストの血潮によって、毎日おかす罪のよごれを洗い流してください。イエスさまを信じ、頼り、従う生活を送ることができるよう、助けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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