10月15日 絶望からの脱出

日が沈むと、様々な病で弱っている者をかかえている人たちがみな、病人たちをみもとに連れて来た。イエスは一人ひとりに手を置いて癒やされた。《ルカの福音書 四・40》

多くの人が、何かしらの病にかかっています。人に必要なのは、理屈や理論ではなく、癒しです。誰が、私たちをこの病と痛みから、完全に癒してくださるのでしょうか。それは、イエスさまです。聖書には、イエスさまが、どんなに人をいやしたいと願っておられるか、そのことがよく描かれています。きょうのみことばの箇所にも、その事が書かれています。

きょうのみことばには、第一に、日が沈んでも、病人を癒し続けられるイエスさまの姿を見ることができます。これがイエスさまのお心です。「日が沈むと」とは、ある意味では、希望を失った人の姿を表しています。いろいろな病気で苦しんでいる人々の人生は、「夕暮れが間近の人生」です。しかし、彼らがイエスさまのみもとに来ると、癒されました。今この時、喜びという太陽が沈み、希望という太陽が沈み、幸福という太陽が沈み、健康という太陽が沈み、愛という太陽が沈み、何かができるという太陽が沈み、全く希望が見い出せないと思っている人でも、イエスさまのみもとに来れば、癒され、希望に溢れることができるのです。

きょうのみことばには、第二に、一人ひとりに手を置いて癒してくださるイエスさまの姿を見ることができます。私たちもこのように、一人ひとりの人に関心を注ぐ必要があります。神の御子でいらっしゃるイエスさまには、一度で全員をいやされることもできます。けれども、イエスさまは、一人ひとりに手を置いて、癒やしてくださったのです。私たちはよく「私のような者が、主に祝福されるようなことがあるだろうか?」とか、「イエスさまが私のような者の苦しみを知っておられるだろうか?」と考えてしまいます。けれども「神は、私の歩みを数えておられる《ヨブ 十四・16》」お方です。神は「私たちの髪の毛さえも、すべて数えておられる《ルカ 十二・7》」お方なのです。

このように、聖書には、私たちの心(霊と魂)が主の来臨(携挙)の日まで守られることを、神は願っておられると言っているのです。「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。《Ⅰテサロニケ五・23》」 私たちに対する神の御心は、私たちが癒され、回復され、元気になることです。天のお父さまは、病んでいる私たちの家庭、病んでいる肉体、病んでいる人間関係、病んでいる思いを、一人ひとりに御手を置いて、癒やしてくださいます。

奴隷として売り渡され、牢につながれたヨセフ。ミデヤンの荒野でのモーセ。ヤボクの渡しでのヤコブ等々。皆、夕暮れ時の人生を送っていましたが、神の恵みによって完全に回復されました。どんなに絶望的に見える状況でも、私たちがどんなに苦しんでいても、イエスさまの御前に行けば、癒され、回復されるのです。

お祈り:私たちにいのちを与え、希望を与えてくださる天のお父さま、感謝します。病んだ家庭、病んだ肉体、病んだ人間関係、病んだ思いを癒やしてください。私たち一人ひとりに、御手を置いてくださるイエスさまにお会いすることができるよう、聖霊さま、祝福してください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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