実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。《エペソ人への手紙 二・10》
犯罪を犯した人をニュース番組などで見る機会がありますが、大抵の人は上着などで顔を隠し、カメラに写らないようにしています。これは、自分の犯した罪が暴(あば)かれると隠れるという、人間に共通の性質によることなのです。
人類の始めの人、アダムとエバが神に対して罪を犯した後の出来事が《創世記》に書かれています。「そよ風の吹くころ、彼らは、神である【主】が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。《創世記 三・8》」 自分の犯した罪が暴かれ、隠れる性質は、ここから始まっています。
人はうわべを隠すことができても、自分の心の中にある本当の姿を、自分自身から隠すことはできませんし、人の心の中をご覧になる主なる神から隠すことも出来ません。
人はだれでも、自分自身に対するイメージを持っています。病にかかっているイメージを持つ人は、病人のような考えと行動をします。自分は罪人だと考える人、敗北者だと考える人、この病気からは抜け出すことはできないと考える人、貧乏だと考える人、地獄で裁かれると考える人などなど、いろいろと自分自身に対するイメージを持っています。そして、そのような考えの通りの自分になるようにと考え、その通りになるように行動し、その通りになるような雰囲気の中で生きるのです。
イエス・キリストの福音は、自分に対するイメージを素晴らしく良いものにしています。いいえ、根本から変革してくださっています。イエスさまを自分の創り主であり救い主であると信頼し、心に受け入れた人は、キリストの中に置かれました。そして、神さまの御前に堂々と出られる資格を持つ自分の姿、神の力を頂いた自分の姿、健康でいる自分の姿、祝福されている自分の姿、永遠のいのちを得た自分の姿を、イエス・キリストの中で見ることができるのです。このような考えを持つ人が営む家庭は、本当に幸せです。たとえ、今は何も無くても、狭い部屋で暮らしていても、今日よりも明日、今年よりも来年は良くなるという希望を、主にあって持つことができるからです。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。《Ⅱコリント 五・17》」今まで、どのようなイメージを持っていたとしても、イエス・キリストの中に置かれているので、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」私たちは、聖なる変革を体験し、新しいことばと考えを持つことができ、その通りに行動することができるのです。
きょうのみことばに書かれているように、キリスト者は、「良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」そして、主が備えてくださった祝福を、豊かに受けることができるのです。ですから、暗い、じめじめした、否定的な自分のイメージを捨てましょう。それは、救われる前の姿です。今は、聖霊さまによって、活気に満ちているのです。喜びと愛に満ちているのです。主のいのちに満ちているのです。その通りに考え、その通りに告白し、その通りに行動しましょう。
お祈り:私たちを全く新しく造り変えてくださった天のお父さま、感謝します。主よ、暗い、じめじめした、否定的な自分のイメージ、病気にかかっている自分、愚かな自分のイメージを捨てます。そして美しく、聖なるイメージを持ち、地の塩、世の光となる生活を送ることができますよう、聖霊さま、助けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


コメント