もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。《マタイの福音書 六・14》
赦すこと。これは、私たちが毎日生活する中で、一番心がけなければならないことです。キリスト者として、イエスさまに従う者として、一番大切なみことばです。イエス・キリストは、罪人を赦してくださり、救ってくださいました。イエスさまは神の御子ですから、ご自分にはまったく罪がありません。私たちの罪を赦すために、身代わりとなって十字架にかかられ、尊い血潮を流し、罪の代価をすべて支払ってくださいました。神の御子であるイエスさまが罪を赦してくださったことによって、私たちは何の価なしに罪が赦され、義とされたのです。神の御前に堂々と出られる資格を得たのです。ですから、イエスさまによって罪が赦された私たちは、自分たちの隣人を赦さなければなりません。
「イエスさまを信じます」と言いながらも、隣人を赦さない人は、実は、自分自身でキリストの赦しを受けられないようにしているのです。「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。《エペソ 四・32》」 「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。《コロサイ 三・12~13》」
私たちの模範となる「隣人を赦した人」は、ヨセフです。ヨセフは、兄たちに奴隷として売られ、エジプトで13年間、あらゆる苦しみを受けました。その後、彼は苦難に勝利し、エジプトの総理大臣になりました。その頃、世界中が飢饉(ききん)となり、食物がなくなりました。けれども総理大臣となったヨセフは、エジプトの中で、食べ物を沢山蓄えました。食べ物がなくなったヨセフの兄たちは、食糧を買いにエジプトにやって来ました。そして、ヨセフは兄たちを赦しました。兄たちと父ヤコブを助けました。父ヤコブが死んだ時、兄たちは次のようにかんぐり、ヨセフを恐れました。ヨセフを奴隷として売ったことを恨んで、ヨセフは仕返するに違いない。けれどもヨセフはこう言いました。「『恐れることはありません。どうして、私が神の代わりになることができるでしょうか。あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたも、あなたがたの子どもたちも養いましょう。』このように、ヨセフは彼らを安心させ、優しく語りかけた。《創世記五十・19~21》」 ヨセフは、神は善いお方であることを知っていたのです。
このように、私たちも隣人を赦すとき、七度まで赦せば十分に赦した、というような人間的な赦しではなく、神は私たちに善いことしかなさらないお方であると信頼し、主がキリストによって私を完全に赦してくださったことを信頼し、イエスさまに感謝するとき、隣人を赦すことができる力が湧き上がります。そして、私たちも神から赦された喜びを、もっともっと受け取ることができるのです。
お祈り:善いことだけをなさる天のお父さま、感謝します。私たちの数限りない罪の一つひとつをお赦しくださり、ありがとうございます。私たちもイエスさまを見習って、隣人の罪を赦すことができますように、聖霊さま、一緒にいて、助けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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